第2章

葉山陸斗の動きが、ぴたりと止まった。

その瞳には、衝撃と疑念が混ざり合った、まるで鋭い刃のような視線が宿り、杏奈を射抜いた。

「……何を言った?」

杏奈は苦く笑い、宝物みたいに大事にしてきたルビーのブレスレットを外した。

「本気よ。離婚しましょう。私、無一文で出ていく」

あの時のハンカチ一枚。

たったそれだけの優しさに縋って、彼を何年も世話してきた。

――もう、目を覚ますべきだ。

あれは礼儀だったのかもしれない。育ちの良さがそうさせただけかもしれない。あるいは、泣き顔があまりにひどくて、見かねただけか。

杏奈は愛をほとんど貰ったことがない。

だから、ほんの少しの善意に触れただけで、数百倍にして返したくなる。

葉山陸斗の切れ長の目が、すっと細くなる。

立ち上がった長身が壁のように迫り、息が詰まるほどの圧が杏奈を押しつぶした。眼底では怒気が渦を巻き、苛立ちが混じっている。

「疲れてる。くだらない芝居に付き合う暇はない」

杏奈は背筋を伸ばし、まっすぐ視線を返した。

「芝居じゃない」

葉山陸斗は鋭く問う。

「理由は」

声は静かなのに、目だけがどこか愉しげだった。どう演じて、どう引くのか――見物しているみたいに。

「疲れたの。あなたとは、もう暮らせない。……それじゃだめ?」

杏奈は拳を握りしめる。

胸の底に溜め込んだ理不尽が、限界を越えた。彼がこれを「気を引く手段」だと決めつけた瞬間、最後の理性が音を立てて崩れた。

「私は、同僚みたいな夫婦ごっこをするために嫁いだんじゃない!」

「あなたはいつも忙しくて、私の気持ちはいつも置き去り! ずっと理解しよう、体を張って支えようって頑張ってきた。でも今日わかったの。……そもそも、違った!」

「葉山陸斗、あなたは……あなたは私を愛してないだけ……」

最後の言葉で、声が震えた。涙が滲む。

痛い。息ができないほど、胸の奥が痛い。

少女の頃から握りしめてきた真心を、祈るみたいに差し出したのに。返ってきたのは踏みつけだけだった。

尊重すらされていない。

どうして、まだ菊地美波を手放せないの。

どうして相手が、菊地美波なの。

――昔、菊地美波の母が父を奪った。今、菊地美波が夫を奪う。

杏奈は唇を噛み、押し殺すように言う。

「もう限界。婚姻中に浮気する男を夫にしておけない。今日のうちに気が変わらないうちに、無一文で出ていく。だから早く、離婚協議書にサインして」

葉山陸斗の目が、深く暗くなる。

杏奈を見つめても、この角度からは涙で揺れる瞳しか映らない。

半分泣きながら訴える声は、彼には途切れ途切れにしか届いていないようだった。

ただ――その涙が、妙に興味を引いた。

杏奈が泣いたのを見たのは一度だけ。子どもの頃。

葉山陸斗は低く、どこか呆れた声音で言う。

「相変わらずだな。泣き方がまだ野良猫みたいに汚い。今はハンカチもないぞ」

杏奈は跳ねるように顔を上げた。信じられない。

離婚の話をしているのに、どうして今さら子どもの頃のことを――?

次の瞬間、体がふっと浮いた。

葉山陸斗が一歩踏み込み、杏奈を横抱きにしたのだ。

反射で首に腕が回る。近距離で、彼の香りが鼻をくすぐった。胸板の熱。力強い心臓の鼓動。

杏奈は硬直し、慌てて暴れる。

「葉山陸斗、何してるの! 降ろして!」

葉山陸斗は笑みを含んだ声で言う。

「暴れたら落とすぞ。恨むな」

見下ろしてくる視線が冷たい。

「さっきからの文句は、普通の夫婦生活がないってことか? ちょうどおじいちゃんにも子どもを急かされてる」

そう言い終えると、そのまま杏奈を抱えたまま二階へ向かう。

この抱擁はどこまでも深く、揺るぎない。まるで、嵐をやり過ごすための穏やかな港のようだ。。

杏奈は初めて知る温もりに、思わず縋りかけた。

けれど次の瞬間、脳裏を刺す。

この腕は、自分の知らないところで何度、菊地美波を抱いたのだろう。

一気に体温が引いた。杏奈は必死に暴れる。

「放して! 子どもが欲しいなら外で他の女に産ませて! 私を欲望の捌け口にするな!」

葉山陸斗の顔色がみるみる悪くなる。

今日の杏奈が何を言っているのか、理解できないという顔だった。

力の差は埋めようがない。彼が放さない限り、杏奈は抜け出せない。

なら――。

杏奈は歯を食いしばり、彼の前腕に思い切り噛みついた。

「……っ!」

痛みに腕が緩む。

杏奈は床に降り、さっと距離を取った。息を荒げ、警戒の目。

葉山陸斗は袖をまくる。赤い歯形が、くっきり並んでいる。

「杏奈。犬か」

杏奈は睨み返す。

「冗談じゃない。今日の私は本気よ。あなたが本気にしないなら――行動で証明する」

吐き捨てるように言うと、そのまま部屋へ引っ込んだ。

廊下に残された葉山陸斗は不機嫌そうに、けれど考え込む目でドアを見つめた。

これまで杏奈は、ただ命令を遂行するだけの無機質な機械のようだった。それなのに、今日の彼女は泣き、喚き、そして私に噛みついた。

歯形へ視線を落とす。痛みは薄い。それなのにやけに目立つ。

一目で分かるほどに。

翌朝。

葉山陸斗が起きると、杏奈は一階にいなかった。

気に留めもしない。杏奈は彼の車に乗らず、出社のためにいつも早起きする。

だが会社に着き、会議を二本終えても、杏奈は書類を持って来ない。

陰りを帯びた目で内線を押し、秘書を呼んだ。

秘書は分厚い資料を抱えて入ってくる。

葉山陸斗は視線だけで促し、短く問う。

「杏奈は?」

秘書は反射的に答えた。

「本日は社内でお見かけしておりません。休暇を取られたのでは……」

葉山陸斗は眉をひそめる。

杏奈は仕事に対して真面目で、休んだことなどない。

そこへノックが響く。

「社長。先ほど宅配便で書類が届きました。奥様からだそうです」

葉山陸斗は胸の奥のざわつきを押し込み、封を切った。

白い紙が二枚、きっちり揃って入っている。

――退職願。

――離婚協議書。

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