第3章
葉山陸斗の顔色が、すうっと沈んだ。瞳の奥では、今にも嵐が立ち上がりそうな黒い気配が渦を巻く。
退職、離婚?
杏奈――ずいぶんと度胸がついたじゃないか。
無表情のまま書類をひったくると、彼はそのままゴミ箱へ放り込んだ。顔を上げ、秘書を射抜くように見据える。
「杏奈を戻せ。二つとも却下だと伝えろ」
秘書は青ざめ、震える声でうなずく。
「は、はい……葉山社長」
陸斗はスマホを取り出し、そのまま杏奈に発信しようとして――トレンドに並ぶ、その衝撃的な二つの見出しを認識した瞬間、指が止まった。
秘書は喉を鳴らし、恐る恐る葉山陸斗を見上げる。
「葉山社長……」
陸斗は冷たく言う。
「言え」
「パパラッチが……社長と菊地美波さんの同行動画を出しました。婚姻中の不貞だと叩かれていて……奥様が、それに返答しています」
秘書は泣きそうな顔で続けた。
「返答の内容は……社長ご自身でご覧になった方が……」
杏奈の言葉を、自分の口で繰り返す勇気などない。
陸斗の眉間の皺がいっそう深くなる。葉山家を継いでから、闇に潜む連中はいつだって嗅ぎ回り、機会があれば噛みついてきた。
今度は、こんな安っぽい捏造で――。
だが、杏奈の返答?
陸斗はスマホを奪うように受け取り、動画を開いた。
背景はデパートらしい。
杏奈は艶めいた赤のドレス。マーメイドラインが身体のラインを際立たせ、波打つロングヘアが背中へ流れている。綺麗なメイクに、瞳がきらりと光った。
息を呑む。
こんな格好の杏奈を見たのは、初めてだった。
――だが。
杏奈が口を開いた瞬間、陸斗の表情は一気に凍りついた。
『はい。そうです。私と葉山陸斗は、もう離婚しました。理由ですか? いい泌尿器科の先生をご存じなら、葉山社長にご紹介ください。こんな若さでEDなんて、人生の大きな汚点ですから』
たった数秒。
それなのに再生数はすでに1000万を超えている。
陸斗の周囲に、ぞっとするほどの低気圧が落ちた。
杏奈――。
よくも、やったな。
陸斗は迷いなく自分のスマホを取り、杏奈へ電話をかける。だが返ってきたのは、氷みたいな機械音だった。
『申し訳ありません。おかけになった電話番号は通話中です』
陸斗の拳に青筋が浮いた。
捏造に加えて、着信拒否か。
この女――一度、痛い目を見ないと分からないらしい。
「杏奈の行動を洗え。今すぐだ」
「は、はい。葉山社長」
同じ頃。取材を終えた杏奈は上機嫌だった。隣の親友、大野友菜に視線を向け、眉を上げて笑う。
「どう? さっきの私、悪くなかったでしょ」
友菜は即座に親指を立てた。
「最高! 前から言ってたじゃん、葉山陸斗はろくでもないって。やっと目が覚めたね。結婚なんか捨てて、自分の人生を取り戻したんだよ!」
杏奈の目に、ほんの一瞬だけ影が走る。
「うん。前は頭に水でも入ってたの。……やっと全部、流れた」
葉山陸斗に近づきたくて、彼の会社で働く道を選んだ。上り調子だったキャリアまで止めて。先輩も先生も止めたのに、返ってきたのは裏切りだけ。
今ごろ、陸斗は離婚協議書を見て――もうサインしただろう。
きっと嬉しいに決まってる。菊地美波と堂々と一緒にいられるのだから。
友菜が杏奈の腕に絡み、歩き出す。
「で、いつアトリエ戻る? 表向きは引退3年って言ってるけどさ、今でも新作あるのかって聞かれるんだよね」
杏奈は手元の指輪跡を見下ろし、口元を吊り上げた。
「明日かな。今日は遊びたい。新しい人生に乾杯」
友菜が悪そうに笑う。
「じゃ、いいとこ連れてく」
案内されたのは、最近オープンしたばかりのバーだった。
一杯飲むだけだと思った杏奈は、友菜がボックス席に座らず、カウンターへ向かったのを見て首を傾げる。マネジャーらしき相手と何か話し、時折こちらを指している。
気になって、杏奈はテーブルの酒を一口。喉がかっと熱くなった。
ほどなく友菜が戻ってくる――その背後に、十数人の若い男がぞろぞろと続いていた。スーツの男もいればラフな格好の男もいる。腰にピンクのウサギ尻尾を付けた者までいて、場違いなくらい目立っている。
男たちは一斉に杏奈の前に並び、声を揃えた。
「菊地さん、こんばんは! 今夜は俺たちが専属ホストです。なんでも命令してください!」
杏奈は目を丸くした。慌てて友菜を見ると、彼女は肩を揺らして笑っている。
「離婚したんだから楽しめ! 離婚祝い、男のプレゼント!」
杏奈はむせかけた。
困惑したまま男たちを見回す。体格も顔も申し分ない。流行りの“美形”が揃い、どれも芸能界で顔だけで食べていけそうなレベルだ。
――なのに。
葉山陸斗の整った顔が、ちらついて離れない。
杏奈は胸の奥で、はあ、とため息を吐いた。
若い頃に、眩しすぎる男に出会うものじゃない。そういうのは、後に残る。
友菜が男たちへ目配せする。
「何してんの! ゲームでもして盛り上げて! 今日この子を笑わせたら、チップ倍だから!」
「い、いらない!」
拒否は空気みたいに無視され、広いソファが一瞬で埋まった。
「菊地さん、ダンス見ます?」
「乾杯しましょう」
「腹筋、触ってみます?」
白シャツ越しに浮く腹のラインが、目の前まで迫る。触ったらどんな感触なんだろう――そんな好奇心が、ふいに顔を出した。
陸斗にも腹筋はある。けれど触らせてもらったことなんてない。朝、ジョギング帰りの白Tが汗で貼りつくと、同じような輪郭が見えたくらいだ。
男が察し、さらに距離を詰める。
「俺、煙草も酒もやりません。毎日筋トレ、生活リズムも完璧です。ほかのご要望も、もちろん……」
杏奈はゆっくり手を伸ばした。
指先が触れそうになった、その瞬間――。
ぷつり、と店内の音楽が止まった。
耳元を裂くような、冷たく鋭い声。
「杏奈。何をしている」
振り向くより早く、背筋が凍る。
駆けつけた葉山陸斗が、そこにいた。
