第4章

「どうしてここに……」

「大した度胸だな」

二人が同時に吐き捨てる。互いの声に、隠しようのない怒気が滲んでいた。

大野友菜は空気の異変を察し、周囲の男たちをさっと散らすと、両腕を広げて杏奈を背に庇った。

「ちょっと! 何なのよ! もう離婚したんでしょ? 杏奈がどこへ行こうが自由! あんたには一ミリも関係ない!」

葉山陸斗は大野友菜に視線すら寄越さない。背後のボディーガードが二人の間に割って入り、強引に距離を作った。

次の瞬間、陸斗の手が杏奈の手首を掴む。ぐいっと力任せに席から引きずり出され、杏奈はよろめいた。

「帰ってから落とし前をつける」

ここは話す場所じゃない。

杏奈は必死に抵抗し、拳で叩き、蹴りを入れ、声を張り上げた。

「離婚協議書だってサインしたでしょ! まだ何がしたいの!? 放して、今すぐ放して! どこに連れて行く気よ、行かない! 友菜を放して! あんたの人間、友菜に触らせないで!」

「葉山陸斗! いい加減に放して!」

バーの中は音が割れるほど騒がしく、杏奈の叫びは音楽に潰されて断片にしかならない。だが陸斗は、肌で拒絶を感じ取ったのか、不機嫌そうに足を止めた。

顔を寄せ、低い声で脅す。

「杏奈。俺の我慢にも限界がある。……結果を背負えるか、よく考えろ」

刃物のような視線が杏奈から滑り、ボディーガードに押さえ込まれている大野友菜へ向く。剥き出しの殺気。

杏奈は一気に気が抜けた。

「……分かった。友菜に触らないで。私、ついて行く」

自分に味方してくれる人間は多くない。大野友菜は、その中でも特別だった。

陸斗は口元だけで笑い、手を離して顎で促す。

杏奈は歩き出す前に親友へ視線を送り、口の形で『心配しないで』と伝えた。

重い足取りで陸斗の後を追い、車へ押し込まれる。

ドアが閉まった瞬間、杏奈は言った。

「用件、今ここで言って」

陸斗の顔色がさらに悪くなる。

「離婚も退職も、認めない」

「認めない?」

杏奈は振り返り、怒りを込めて彼の顔を端から端までなぞるように見た。

「何様? 私は何も要らない。一文無しで出ていく。あんたたちのために身を引く。それでも不満?」

「結婚して三年、名ばかりよ。会った回数なんて片手で足りる。こんなの続けて何の意味があるの?」

「離婚協議書にサインするだけで終わり。あんたは好きな人を迎えられる。嬉しくないの?」

陸斗の眉間の皺が深くなる。嫌悪と苛立ちが顔に浮いた。

「何を言ってる。好きな人? 誰のことだ。俺はここ数年仕事が忙しかっただけだ。それにこの界隈の夫婦なんて、皆こんなものだろう」

鼻で笑う。

「おまえが葉山グループに入ってからは、毎日顔を合わせていた。片手じゃ足りない」

杏奈は言葉に詰まった。

確かに、口が滑った。会うと言っても、出張から戻れば同じテーブルで食事をする程度。夫婦の実なんて、一度もない。

それでも杏奈は引かない。

「だから何? 毎日会ってたって、あんたが浮気した事実は変わらない」

菊地美波が突きつけてきた証拠が脳裏をよぎり、杏奈は背筋を伸ばす。

陸斗の目が暗く沈み、黙って杏奈を見た。

「……図星?」

胸の奥が鋭く刺さる。分かっているのに、認めたくない。それでも、その沈黙が答えに見えてしまった。

「そんなに菊地美波が好きなら、どうして私と結婚したの? 葉山家と菊地家の縁談、もともとあんたが選んだのは彼女だったんでしょ」

杏奈の声はどんどん大きくなる。

「離婚して、正しい場所に戻ればいいじゃない。自分の好きな女と結婚できる。何が不満なのよ!」

「無茶を言うな」

陸斗は眉をひそめた。

「もう結婚している。美波とも、おまえが考えているような関係じゃない。今は帰るぞ」

そう言い捨てると、仕切りを軽く叩き、運転手に発進を促した。

杏奈はドアを開けようとしたが間に合わない。悔しさに車のドアをがん、と蹴りつけた。

「大人しくしていろ」

陸斗は目を閉じ、背もたれに身を預ける。

「戻って、葉山の奥様を務めろ。仕事は仕事、家は家だ。バーでホストを侍らせた件は見逃す。だが次はない」

「何様のつもり? 離婚するって言ってる! 葉山の奥様なんて戻らない。葉山グループにも戻らない!」

杏奈の中で、何かがぷつりと切れていた。だから声を張れる。

大野友菜の言う通りだ。こんな男に、心も愛も与える価値はない。

あのチケットと写真を見た時の鈍い痛みを、もう二度と味わいたくない。

この人のために壊れるなんて、馬鹿げている。

菊地美波の母が父を奪い、菊地美波が夫を奪う。

断ち切れない母娘の鎖、そして底なしのクズどもが交わす薄っぺらな馴れ合い。

杏奈は腹の底で決めた。

母は不倫相手に人生を壊され、命まで落とした。自分は同じ道を辿らない。

離婚して、自分を強くして――いつか仕返しする。

男たちが大事にするのは家業だ。菊地家は近年、葉山家に遅れを取っている。この縁がなければ、とうに傾いていたかもしれない。

静かな車内で、スマホが震えた。

杏奈は反射的に自分のスマホを探しかけ、違うと気づく。陸斗が電話に出ていた。

車内があまりに静かで、繋がった瞬間から美波の甘ったるい声が聞こえた。

「陸斗、仕事終わった? あなたの好きなお店、予約したの」

杏奈は白目を剥きつつ、陸斗の様子を窺う。

陸斗は気づいたのか声を落とし、杏奈から遠い方の手に持ち替えた。

「……わかった。迎えに行こうか」

「うん。先に行ってて。あとから行く」

通話が切れる。

陸斗は車内通話で運転手に停車を指示した。

「おまえは帰れ。俺は用事がある」

陸斗の移動は常に三台。本人の車と、前後のボディーガードの車。

「ふん」

杏奈は冷笑する。

「行けば? 菊地美波に言っといて。私は一文無しで離婚するって。今夜サインしてくれたら、少しは見直す」

言葉は強がりでも、胸の奥は酸っぱかった。

愛した男。夫婦として三年過ごした男。捨てるのは簡単じゃない。

ぼんやりしている間に車は別荘へ着いた。

杏奈はため息を吐き、疲れた身体を引きずって中へ入る。

急いで飛び出したせいで荷物は何ひとつ片づけていない。なら、戻されたついでに自分のものだけまとめて出よう。美波と陸斗に、また何か言われる前に。

クローゼットルームの服も宝飾も、葉山の奥様としてのものには触れない。自分の分だけを選び、スーツケースへ詰める。

座って一息つこうとした、その時。スマホが連続で震えた。

大野友菜に無事を伝えていない。バーはどうなったのか。

ロックを解除した瞬間、通知が雪崩れ込む。

手が震え、開いてしまう――菊地美波からのメッセージだった。

陸斗と食事をする密着写真。動画が三本。

再会のハグ。食事中、陸斗が海老を剥いて美波の口へ運ぶ場面。腕を絡めて車に乗る場面。

『菊地杏奈。葉山の奥様を名乗って楽しい? 葉山陸斗はあなたを見向きもしないのに』

杏奈の指が白くなる。奥歯を噛みしめ、罵声を飲み込んだ。

代わりに、写真も動画も会話ログもすべて保存し、バックアップを取る。

そして打ち返す。

『菊地美波。葉山陸斗がそんなにあなたを愛してるなら、さっさと私と離婚するべきでしょ。あなたがここで道化をやってる場合?

これ以上ちょっかいを出すな。さもないと菊地家のお嬢様が、EDの葉山陸斗にすり寄ってるって世間にばらす。恥をかくのはどっち?』

杏奈はスマホを放り投げ、ベッドへ倒れ込み両腕を広げた。ごろり、ごろりと転がり――またスマホを拾って大野友菜へメッセージを送る。

一方、スマホを握る菊地美波は歯ぎしりした。

返信が遅すぎて、証拠を撤回できなかった。

――杏奈。覚えてなさい。必ず葉山家から追い出してやる。

あんたが葉山の奥様の席に居座る資格なんてない。

怒りで顔が歪む。

「何を考えてる」

キッチンから戻ってきた葉山陸斗が、淹れたばかりの茶を手に立っていた。

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