第5章
菊地美波はスマホを伏せて脇へ置き、いつもの甘い笑みを貼りつけた。膝にクッションを乗せると、甘えるように下腹へそっと押し当てる。
「陸斗……来てくれて、よかった」
葉山陸斗は痛ましげに息を吐き、近づいてカップを差し出した。
「飲め。ちょうどいい温度だ」
「ありがとう~」
美波はふわりと笑って受け取り、ひと口ふくむ。視線は絡みつくように、ずっと彼の上を漂った。
今日、陸斗がどこから駆けつけたのかは分からない。けれど杏奈が怒っているのは本当だ。
「陸斗、姉ちゃんと何か誤解があったの? どうして急に、記者の前であんなこと……」
言葉を濁しながら、美波の視線が何気なく陸斗の下へ落ちる。頬にうっすら紅が差した。
「夫婦げんかは家の中ならいいけど、外で言ったらあなたの顔に泥を塗るし、笑いものよ。下手したら会社の株価にだって影響するかもしれない」
軽くため息をつき、哀しげに続ける。
「姉ちゃん、ずっと田舎にいたから、名門のルールなんて分からなくて……あなたまで苦労するの」
陸斗は黙ったまま。膝の上の指が、無意識にとん、とんと動く。脳裏に浮かぶのは、理屈っぽく騒ぎ立てる杏奈の顔。眉間の皺が深くなった。
美波はその変化を見逃さず、内心でほくそ笑む。口角を下げる努力をしながら言った。
「陸斗。私が代わりに謝る。責めないであげて。あの人、何が大事かも分からない可哀想な人だから……。早く帰って、一から丁寧~に教えてあげたら? ついでに世間へのお釈明も、きっちりさせなきゃねぇ?」
「ふん。吐いた言葉はそう簡単には戻らない」
本来、杏奈に潔白を証明させるつもりだった。『夫婦喧嘩の末、感情的になった妻が口を滑らせただけ』――そんなシナリオの弁解文を、広報に用意させていたのだ。
だが見つけた途端、杏奈は食ってかかってきた。ああいう感情で突っ走る人間が、こちらの思い通りに動くはずがない。
美波はくるりと瞳を転がし、カップを置いて陸斗の腕に絡みついた。
「試してもいないのに、どうしてお姉ちゃんが拒むって決めつけるの?」
「この二日、俺を見るたびに噛みつく。無理だろう」
陸斗は疲れたように眉間を押さえ、さりげなく腕を抜いた。
——喧嘩、ね。
美波は満足しつつ、すぐに表情を整える。
「喧嘩ほど、ちゃんと話さないと。陸斗が説明しなきゃ誤解は深まる。そうなると……お姉ちゃん、何をするかわからないもの」
そう言って、ぶるりと肩を震わせた。
「子どもの頃からそうだった。だから、お父さんもずっと田舎に置いたのよ」
陸斗の目が細くなる。言葉を、真に受けたようだった。
美波は可哀想そうに息をつき、少し冷めた茶を飲み干す。ふらりと立ち上がった次の瞬間、足がもつれてソファへ崩れ落ちた。
「危ない」
陸斗は即座に支え、背中にクッションを当て、部屋の隅に落ちていた薄いブランケットを引き寄せて膝にかける。
「具合が悪いなら大人しくしてろ」
そう言い残し、キッチンへ向かった。ほどなく水音が響く。
美波はすばやくソファの隙間からスマホを引き抜く。杏奈からの新着がなく、少しだけ唇を尖らせた——が、すぐに気持ちを切り替えた。
陸斗が回復してからというもの、美波は彼の周りに頻繁に姿を見せてきた。出張のたびに「偶然」を装い、食事をし、買い物をし——最初は冷たく拒まれても、回数を重ねれば氷は溶ける。
同じ社交界で、顔を合わせる機会は元々あった。葉山と菊地、両家の縁談が表の関係を作り、距離を詰める理由にもなった。
美波は明里暗里に杏奈の悪口を重ねた。婚約を奪うために彼女を海外へ追いやったのも、その延長だ。
陸斗が信じたかどうかは分からない。けれど——電話一本で来て、こうして茶まで淹れてくれる。
「もう遅い。休め」
片づけを終えた陸斗が、ラックからコートを手に取る。
美波は、杏奈の「暴露する」発言にまだ苛立っていた。ふと思いつき、ソファから飛び起きて背後から抱きつく。
「陸斗……今日は泊まってくれない?」
「無理だ。仕事が山ほどある」
陸斗は容赦なく引きはがし、肩を支えて立たせた。
「杏奈の発言で影響が出てる。社内も待ってる」
美波は唇を噛み、健気に頷く。自分でコートを着せ、名残惜しそうに玄関まで送った。
「陸斗、あなたならきっと上手く片づけられる。終わったら、私がご馳走するね」
「……ああ」
陸斗は美波の頭を軽く撫でる。
「休め。行く」
扉が閉まった瞬間、美波の笑みは消えた。
「杏奈……もっと暴れて。怒って。陸斗と大喧嘩して。あなたが騒げば騒ぐほど、私がいい子に見えるんだから」
美波は前回の失敗を思い出し、直接メッセージで挑発はしない。腰をくねらせて部屋へ戻り、美容のために眠ることにした。
その夜、陸斗は会社で徹夜し、杏奈の発言がもたらした悪影響の火消しに追われた。
朝、休憩室で目を覚ました時、疲労が顔に張りついている。
「杏奈は来たか」
掠れた声で椅子に沈み、目を閉じる。
秘書は唾を飲み込んだ。
「奥様は……まだ」
顔色を窺って付け足す。
「すぐ連絡して、催して……」
言い終える前に、秘書は飛び出していった。
その頃、出かける支度をしていた杏奈のスマホが鳴る。知らない番号。
迷った末に出た。
「もしもし」
「奥様、やっと繋がりました……!」
秘書の声は泣きそうだった。
杏奈はうんざりしたように口元を歪める。
「用件は」
もう葉山陸斗に媚びる必要はない。会社の人間にも、遠慮する理由はなかった。
秘書は戸惑いながらも、陸斗の指示を丁寧に伝えた。
杏奈は即答する。
「辞表は出した。私はもう退職した。これから出社しない。二度と電話しないで」
ぶつり、と切る。
杏奈は車で大野友菜のアトリエへ直行した。
葉山グループより、小さくても尖ったあの場所の方が、よほど性に合う。
友菜は彼女の復帰に向け、早くから準備していたのだろう。杏奈が入った瞬間、クラッカーがぱぁんと弾け、紙吹雪が降り注ぐ。
「菊地デザイナー、おかえり!」
大野友菜は露を含んだ黄薔薇の大束を抱え、紙吹雪を踏みながら近づいてくる。まるで神を迎えるみたいに。
