第6章
杏奈の目元が、かっと熱くなる。
葉山グループに入った日の苦労が、ふいによみがえった。
葉山グループは老舗だ。伝統の不動産や工業を基盤にしつつ、時代に合わせて新規事業にも手を伸ばしている。そんな会社に入るのが、どれほど難しいか。
エントリーから面接まで、八回。
そこまでして滑り込んでも、配属先はマーケティング部の平社員だった。
ようやく掴んだ席だったのに——葉山陸斗との関係が表に出た途端、周囲の目は一変した。「夫婦のじゃれ合い」みたいな色眼鏡で見られるようになったのだ。
だからこそ、仕事では一切手を抜けなかった。回ってくる案件はどれも、何度も考えて、削って、磨いて。
うまくやったところで陸斗が褒めることはない。だが失敗すれば、必ず叱られる。
ぼんやり立ち尽くしていた杏奈を、大野友菜がぐいっと抱き寄せ、花束ごと腕に押しつけた。
「気に入らなかった? 朝イチで選んだんだよ」
「違う。黄薔薇、いちばん好き」
杏奈はぱちぱちと瞬きを重ね、涙を押し戻す。
「……何年も戻ってなかったけど、私のオフィス、まだある?」
「あるに決まってるでしょ! この数年は私が使ってたけど、あなたの物はぜーんぶ取ってあるから」
そう言いながら友菜は杏奈を先導しつつ、じろじろと観察してくる。
昨日、陸斗が仏頂面で杏奈を引きずっていった光景が、まだ脳裏にこびりついているのだろう。夜に杏奈から無事だと連絡は来た。今朝の様子も平気そう。けれど——服で隠れている場所に、何かされていない保証なんてない。
人前であれだけ強引にやれる男だ。家の中なら、何をするか分からない。名門の世界では、そういう話は珍しくもない。
杏奈はその視線に気づき、安心させるように目で合図した。
スタッフに囲まれながら、オフィスへ向かう。
大野友菜のアトリエは、繁華街の三階建てビルの中にある。
1階が展示スペース、2階と3階が執務エリア。
杏奈の部屋は3階のいちばん日当たりがいい場所だった。大きな窓の前に立てば、通りを行き交う人の流れが見え、ときどき街のざわめきまで届く。
三年ぶりに踏み入れても、部屋の半分——杏奈のエリアは何ひとつ変わっていなかった。花瓶の黄薔薇には露が残り、まるで今朝活けたばかりみたいだ。
友菜がデスクのネームプレートを指でちょいと押し出す。
「戻ってきたら、席もポジションも元通り。……菊地部長、どう?」
「ありがとう」
杏奈は花束を置き、周囲にいるスタッフたちへ視線を向けた。
「今日から一緒に働くことになります。よろしくお願いします」
ぺこり。
葉山グループに初めて入ったあの日と同じように、きちんと頭を下げる。
ぱちぱちぱちっ。
友菜が先頭で手を叩き、にっと笑った。
「よし! うちの大黒柱が帰ってきた! これから絶対、ブランドをもっと大きくするよ!」
ひとしきり言葉を交わして、皆が散っていく。
広いオフィスに残ったのは、杏奈と友菜だけだった。
友菜はドアを閉めるなり、杏奈を椅子から引っぱり上げて、上から下まで検査する。
「葉山陸斗、あの変態……何もしてないよね? 殴られてない? 昨日のあいつマジで怖かった! バーに来るだけならまだしも、ボディーガード何人連れてんのよ。こっちも身動き取れなくなったし!」
念入りに確認し、杏奈の肌に傷ひとつないと分かると、友菜はようやく息を吐いた。
杏奈の胸がじんわり温かくなる。思わず、素直な笑みがこぼれた。
「手は出されてない。連れ戻すって言ってたけど、途中で菊地美波に呼ばれて消えた」
「クソ野郎!」
友菜が吐き捨てる。
杏奈も深くうなずいた。
「ほんと、クソ」
「離婚届は? もう出せそう?」
杏奈は首を振る。
「昨日の朝、会社に退職届と離婚協議書を送ったの。あの人の私への嫌いっぷりなら、離婚協議書にはサインしてるはず。たぶん、昨日の記者の件を根に持って渡してこないだけ」
陸斗の態度は、この三年で嫌というほど分かっている。迷う余地なんてない。
しかも——自分への態度と、美波への態度を並べてしまった後では、なおさらだ。
電話一本で呼び出されていく夫に、情なんてあるはずがない。
今の騒ぎは、面子を潰された腹いせ。ただそれだけ。
杏奈は後悔していなかった。
三年間で自分が飲み込んできた屈辱は、彼の比じゃない。
まずは味見。これからもっと大きな「贈り物」を用意してやる。
友菜は杏奈の目に迷いがないのを見て、腐った男の話を切り上げるように手を叩いた。
「はいはい、暗い話は終わり!」
そのままデスクに腰掛け、悪そうに眉を動かす。
「せっかく戻ってきたんだし、久々のアカウントで復帰宣言しちゃう? 三年前のあなた、界隈でいちばん勢いあったんだよ? 植物状態になりかけたクズ男のために全部捨てたとか、今思い出しても腹立つ。あいつさ、どうしてベッドの上でそのまま——」
「もういいってば」
杏奈は呆れたように白目をむく。
「私が当時バカだっただけ。掘り返さないで」
そう言いながらスマホを取り出し、指が勝手に動くほど慣れたアカウントへログインする。机のネームプレートを撮り、文章を打って送信。
杏奈は画面をひらりと見せた。
「はい、大野さん。これからよろしく。」
「よろしく、菊地部長~」
友菜がにっこり手を差し出す。
二人は握手し、すぐに離した。
ほどなく友菜が、アトリエの最近の案件の資料をどさどさと運んでくる。
「どれか気に入るのある? まずは1つか2つ、肩慣らし」
「うん」
杏奈は遠慮なく受け取った。三年のブランクがあるなら、頂点への道も一歩ずつだ。
「先に見てて。私、会議あるから。質問はあとで」
「了解」
杏奈は親指を立て、あっという間に机いっぱいの書類へ沈んでいく。
——けれど、外はすでに大騒ぎだった。
杏奈のSNS投稿ひとつで、火がついたように。
三年前、フローラル・リュクスシリーズでジュエリー界に名を轟かせたデザイナーの復帰。話題にならないわけがない。
あの頃、誰もが次の新作を待っていた。なのに先に出たのは、結婚引退のニュースだった。
杏奈と葉山陸斗の結婚は、ネットでは事実だ。しかも昨日、あの騒動があったばかり。
復帰の裏には夫婦の破綻があるのではないか。そんな疑惑の声が、波紋のように広がっていった。
そしてそのニュースは、陸斗のもとにもすぐ届いた。
秘書の報告を聞いた瞬間、葉山陸斗の顔色はさらに険しくなった。
