第7章

「杏奈に連絡しろと言ったが……つながらなかったのか?」

葉山陸斗はサイン用の万年筆をきつく握りしめ、声を底まで落とした。

秘書は息を詰め、ぎこちない笑みを貼りつける。

「……いえ、つながりました。奥様は『もう退職した。二度と連絡しないで』と」

その瞬間、社長室は時間ごと凍りついたようだった。

葉山陸斗は椅子に深く沈み、十五分ほど無言で座り続ける。そしてようやく口を開いた。

「……そのアトリエに、すぐ提携の話を持ちかけろ」

「どちらの……」

秘書が問いかけた瞬間、鋭い視線が飛んできた。慌てて一歩下がる。

「し、失礼いたしました。承知しました。すぐに」

――死にたくない秘書は、文字どおり飛ぶように走った。

十分もしないうちに、大野友菜のもとへ葉山グループから協業のオファーが届く。しかも名指しで、杏奈。

「今日の会議はここまで。明日は菊地部長も合流して、次シーズンの新製品について詰めましょう」

友菜は、杏奈がこの数年どれだけ葉山陸斗に無条件で譲ってきたかを知っている。だからこそ、葉山陸斗が何をしに来たのか――察してしまった。

けれど、決めるのは杏奈だ。

杏奈は葉山グループからの協業依頼を三度読み返し、差出人が葉山陸斗本人だと確認すると、口元だけで冷たく笑った。

三年。規則を重んじ、何事も手順を踏む男だと思っていた。……結局、気分次第じゃない。

「杏奈、どうする?」

友菜は唇を結び、フォルダを握る指の関節が白くなる。

「向こうから転がり込んできた仕事を、捨てる理由はない」

杏奈は友菜のスマホを取ると、迷いなく指を動かして見積もりを返信し、ぽいっと返した。

友菜は画面を見た途端、目を見開く。

「……8,000万? 1枚で8,000万?! 杏奈、本気?」

杏奈は振り返り、まっすぐ頷いた。

「私には、その価値がある」

友菜は苦笑する。価値があるのは事実だ。……そこに個人的な感情が混じっているのも、また事実。

でも、それでいい。

葉山陸斗が受けようが拒もうが、胸のつかえは少し晴れる。

「じゃあ、仕事しよ」

杏奈は資料へ視線を戻す。

「あなたがくれたファイル、まだ読み終わってない。明日はみんなと会議だし、遅れたくないの」

責任感の強さは昔から変わらない。戻ると言った以上、手を抜くつもりはなかった。

友菜もその性格を知っている。何も言わず、自分の席へ戻った。

同じオフィスを使っていても、書類棚と展示ラックでほどよく区切られている。ふと顔を上げても、すぐには視線がぶつからない。――二人の間には、ちゃんと私的な距離が残っていた。

杏奈はデスクで深く息を吸い、葉山陸斗のことを頭の隅へ押しやる。仕事に戻ろうとした、そのとき。

スマホが鳴った。

画面に出たのは、先輩・田辺翔太からのビデオ通話。

杏奈は髪をさっと整え、通話を取る。

「今日、どうしたの? 連絡くれるなんて」

嬉しさが声に滲んだ。

結婚してから、海外にいる教授や先輩たちとは、ほとんど音信不通だった。連絡したくないわけじゃない。――ただ、顔向けできなかった。

あの頃の葉山陸斗は、ベッドに横たわり、目を開けない日々が続いていた。植物状態になるかもしれないと言われていた。杏奈は彼のために、研究チームに入る機会を捨てた。夢を捨てたのと同じだった。

皆が止めた。先輩も教授も、順番に説得してくれた。

それでも杏奈は、好きな人のほうを選び、結婚へ突っ込んだ。

式のあと、祝儀や贈り物は届いた。けれど、前みたいな距離には戻れなかった。

「元気か?」

白衣姿の田辺翔太が、スマホをビーカーに立てかける。乱れた髪をかき上げる仕草が、研究室にこもりきりの一日を物語っていた。

杏奈は急に胸がちくりと痛み、視線を泳がせる。

「……もう知ってるんだね。でも大したことじゃないよ。自分で片づける」

田辺翔太は黒縁眼鏡を押し上げる。

「おまえならできる。……それで、だ。戻ってこないか? 先生のラボには、ずっと席がある」

杏奈の目が熱くなり、慌てて俯いた。

「今はまだ無理。友菜のアトリエに戻ったから……もう一度、デザイナーとしてやり直したい」

「デザインか」

田辺翔太の強張っていた表情が、わずかにほどける。

「それもおまえの仕事だ。好きなら、それでいい」

「うん。三年前は、業界でいちばん勢いがあったし……戻ったら、またやれると思う」

杏奈は顔を上げる。瞳の奥に、久しぶりの光が宿った。

田辺翔太は低く頷く。

「分かった。後輩、いつでも連絡しろ。戻るなら、俺が全部整える」

――三年前、恋で研究を離れた才能が、恋を捨てた今、別の形で世界を前へ進めるかもしれない。先輩として、その道の灯りになるのは当然だった。

杏奈は何度も頷く。

「ありがとう。私にできることがあったら、いつでも言って。この数年は国内にいたから、こっちの事情は私のほうが分かる」

少し雑談して、通話は切れた。

静けさが戻る。

杏奈はメッセージを適当にスクロールした。友菜が入れてくれた業務用グループチャット、先輩たちの気遣い。――なのに、葉山家からも菊地家からも、何ひとつ届いていない。

杏奈はふっと息を吐き、スマホを遠ざけて仕事に戻った。

昼、友菜が近くのレストランで個室を取り、小さな歓迎会を開いてくれた。杏奈と、ここ数年で入ってきたスタッフたちの顔合わせだ。

午後も目が回るほど忙しい。夜、退勤後に友菜が飲みに誘ってきたが、杏奈はきっぱり首を振った。

「行かない。部屋を探したい。離婚するなら……葉山家を出ないと」

近づいてくる友菜を手で制し、助けも断る。

「もう十分、助けてもらった。何でもかんでも頼りたくない。それに……一人で落ち着きたいの。お願い、今日は放っておいて」

理屈では切り捨てられる。

それでも感情だけは、弱かった自分にハンカチを差し出したあの人を、まだどこかで庇う。

整理する時間が要る。抜け出す時間が要る。

友菜は唇を尖らせたが、それ以上追ってこなかった。ただ、見送るだけ。彼女自身も、バーへ行く気分は消えていた。

一人で駐車場へ向かった杏奈は、白いベンツの前で立ち止まる。胸の中が、苦くて、渋くて、ぐちゃぐちゃだった。

これは、菊地美波の代わりに葉山陸斗へ嫁いだとき、菊地父が「贈り物」だと言って渡してきた車。

当時、葉山陸斗は植物状態になると噂され、葉山家からも見放されるだろうと言われていた。

菊地美波は海外へ飛び、元恋人のもとへ戻った。菊地父は葉山家と事を構えたくなくて、長年放逐していた長女――杏奈を呼び戻した。

本当は、そのまま菊地父と縁を切るつもりだった。

けれど、嫁ぐ相手が葉山陸斗だと知った瞬間、杏奈は頷いてしまった。

菊地父は「家族」で杏奈を縛れると思い込み、継母に持参金を削らせた。理由は簡単だ。

――廃人に金をかける価値はない。

挙げ句、亡くなった母まで持ち出した。菊地家に何の貢献もしていない、財産だって母が死んだあとに築いたものだ、と。

杏奈は継母と大喧嘩した。残ったのは、この車だけ。

「……もう、全部、手放さないと」

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