第8章

葉山陸斗――もう、いらない。

菊地家も、同じだ。

杏奈は車のドアへ手を伸ばした。まずは部屋を探して葉山家を出る。それから菊地家にある母の遺品だけ回収して、きっぱり縁を切る。

指先が取っ手に触れる、その直前――。

ぐいっと手首を掴まれた。

「杏奈! 菊地美波に何をした!」

葉山陸斗の怒声。引っ張られて杏奈はよろけ、目を見開く。

「……何の話?」

今日は会社で一日中仕事だった。菊地美波に会うどころか、メッセージひとつ送っていない。

手を振りほどこうとするが、陸斗の手は鉄みたいに硬い。そのまま乱暴に自分の車へ押し込もうとする。

昨夜の最悪なやり取りが脳裏をよぎり、杏奈は拳も足も止まらなくなる。まるで発狂したみたいに叩いて蹴った。

「放して! 放してってば! ついていかない!」

泣きやすい体質だ。悔しさが喉に詰まって、叫んだ声は震え、涙声になる。

陸斗は露骨に顔をしかめ、さらに力任せに杏奈を押し込み、運転手へ命じた。

「出せ」

杏奈はドア脇に縮こまり、しばらく呼吸を整えてからようやく口を開く。

「葉山陸斗、何なのよ。私、ここ数日美波に会ってない。何をしたって言うの? 頭おかしいみたいに決めつけて騒がないで。降ろして。私の車、アトリエに置いてあるの!」

「しらばっくれるな。美波を傷つけるのは、おまえしかいない」

刃物みたいな視線が、まっすぐ杏奈を貫いた。

訳がわからない。だが次の瞬間、杏奈は鼻で笑った。

「……で? 美波が何て告げ口したの?」

子どもの頃からそうだ。表はにこにこ、裏で刺す。

だからこの手口が大好きなんだ。効くから。何度でも。

陸斗は苛立たしげにネクタイを緩める。

「告げ口はしていない。だが――美波は今、病院だ」

「病院?」

数日前、チケットを山ほど見せびらかして、得意げに顎を上げていたあの女が?

杏奈は嘲るように陸斗を上から下まで眺めた。

「あら、具合が悪いの? なら看病なんて生易しいことではなく、専門家に診てもらうべきね。……まさか、私の名前を聞くだけで発症する特異体質? そういう未知の病気なら、いっそ検体として提供したら? 医学界から表彰されるかもしれないわよ」

「杏奈、おまえに心はないのか! 美波はおまえの妹だろ!」

陸斗の声が一段上がる。

前の席の運転手が息を呑み、存在を消すように背を固めた。

その言葉で杏奈が思い出したのは、美波ではない。――死んだ母だ。

「うちの母は、私しか産んでない。……その言い方だと、美波はあの世で生まれたの?」

容赦なく突き返す。

陸斗の目が赤く染まり、怒りが露骨に滲んだ。

杏奈も睨み返す。悪いなんて欠片も思わない。

無言のまま睨み合い、車が病院に滑り込んでようやく終わった。

今度は杏奈は抵抗しなかった。おとなしく降り、陸斗の後ろについていく。

興味があった。菊地美波は今度、どんな芝居を打つ? どんな泥を自分に塗るつもり?

陸斗は病室へ直行せず、VIP病棟の廊下で足を止めた。

「杏奈。最近おまえが何を拗ねてようが知らん。だが入ったらちゃんと美波と話せ。刺激するな。謝って、思い詰めるなと説得しろ」

「何であなたの言うことを聞かなきゃいけないの」

杏奈の声は棘だらけだった。刺さって倒れないだけ、ありがたいと思えばいい。

陸斗のこめかみに青筋が浮く。赤い血管が増えていく。

「杏奈、美波はおまえのせいで自殺したんだぞ! まだ分からないのか。俺に当たるのは勝手にしろ。だが何で美波に当たる! みんな死ななきゃ気が済まないのか!」

抑えた声の奥に、煮えた怒り。

杏奈は同じくらい腹が立って、目つきが「ゴミを見る」から「精神科案件を見る」へ変わった。

陸斗はそれに気づきもしない。言い聞かせたつもりで、勝手にドアを開けて入っていく。

病室の中。

菊地美波はベッドに上体を起こし、凄絶に儚げな目でこちらを見つめていた。

「陸斗、どうして……姉――」

言い終える前に、杏奈が大股で踏み込む。

「来たわよ」

「姉ちゃん……姉ちゃんも来たのね」

美波は怯えた小鹿みたいにベッドの奥へ縮こまる。今にも虎に喉元を噛み千切られそうな顔。

杏奈は室内を一巡し、最後に陸斗の腕に抱かれている美波へ視線を落とした。

青と白のパジャマ。襟元はわざとボタンを二つ外して鎖骨を見せている。顔色は確かに白い。けれど唇のあたりは粉が浮き、ムラが見えた。

――へえ。自殺、ね。

美波は泣きながら言う。

「杏奈姉ちゃん、全部私が悪いの。あの日、すぐに契約してあげなかったから……怒らせたんだよね。許して?」

「これからは姉ちゃんとの仕事なら、絶対にサインする。私たち姉妹でしょ。姉ちゃんが欲しいもの、私いつも譲ってきたじゃない……」

杏奈は盛大に白目を剥いた。

「そうね、太っ腹。葉山陸斗が植物状態になるって聞いた瞬間、海外に飛んで元カレのところに戻ったもんね」

一歩引き、鼻で笑う。

「その顔、手入れしなよ。そんな粉でムラになるなら、美人売りも大変でしょ」

陸斗が何か言おうと口を開きかけた、その瞬間。

杏奈は卓上のリンゴを掴み――陸斗の口にぐいっとねじ込んだ。

「あなたも最低!」

冷たい目で見下ろす。

「その程度で葉山グループの社長? 脳の検査でも受けたら。いつか人に売られても、金を数えてそう」

さらにリンゴを押し込み、杏奈は踵を返した。

――精神病の相手は疲れる。

この騒ぎで部屋探しの気力も消し飛んだ。杏奈はスマホを取り出し、大野友菜に電話をかける。今夜だけ泊めて、と。

親友は親友だった。連絡した瞬間、すぐ病院へ駆けつけ、あっという間に杏奈を連れ出してくれる。

帰り道も慰めが途切れない。罵声も途切れない。

「クズ同士、勝手にくっついてろ。今日の値段、まだ安い。1枚10億でいい! 葉山陸斗なんて見る価値もない!」

「その妹も最悪。悪女だよ。歳も大して変わらないくせに、毎日『姉ちゃん姉ちゃん』って――吐き気する」

「ほんと、母親そっくり!」

「父親もクズ! 目が腐ってる。そんなの選んで、そんなの育てて……社会の毒だよ!」

「大野友菜」

杏奈は窓に肘をつき、淡々と言った。まるで天気の話みたいに。

「私、菊地家と縁を切る」

大野友菜の罵倒がぴたりと止まる。助手席の杏奈を横目で見て、唇を何度も結び直し――やがて路肩に車を寄せて停めた。

「……杏奈。決められたなら、それでいい」

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