第9章

杏奈はその夜、大野友菜と身を寄せ合うようにして眠り、久しぶりにぐっすり休めた。

朝は二人そろってアトリエへ向かい、それぞれの仕事に取りかかる。

まだ大して時間も経っていないのに、不意に教授から電話が入った。

着信表示を確認した杏奈は、途端に手元がもつれた。切られるのが怖くて、指先が震えるまま通話ボタンを押す。

「……教授」

三年前。周囲の反対を振り切って帰国し、葉山陸斗と結婚するために研究室の道を手放した。後ろめたさは消えない。しかも別れ際は、最悪だった。

国内の騒ぎは先輩たちも知っている。教授が知らないはずがない。

『うむ。昨日の件は翔太から聞いた。おまえは今すぐ研究室に戻れなくても、医療のためにできることがある』

相変わらず、回りくどさのない言い方。だからこそ杏奈の肩から、ふっと力が抜ける。

「……私で役に立てるなら、うれしいです」

わずか数分のやり取りだったが、国内で特殊症例向けの薬剤開発プロジェクトが動いており、その協力先との窓口が必要だという話を聞かされた。

面会は今日の午後。

本来来るはずだった先輩が急用で動けなくなり、代わりに杏奈を立てたいという。

「教授、今日の午後でしたら調整可能です。必要な資料、日時、場所をご教示いただけますか。進捗につきましては、追って報告いたします」

即答して通話を切ると、杏奈はすぐ大野友菜に事情を説明し、午後の休みをもらった。

教授から届いた案内は、場所が茶室、時刻は15時。

アトリエから車でおよそ一時間半。

杏奈は刷りたての資料を揃え、昼休みになるやいなや飛び出した。道中でサンドイッチをかじって腹を満たし、残りの時間は資料に目を走らせる。

三年間、研究室に戻れなくても教授の研究は追ってきた。とくに特殊症例のプロジェクトは。

夢や志のため――それもある。

でも本音は、かつてベッドに横たわり、植物状態になりかけた葉山陸斗を救いたかったから。

「……バカみたい」

杏奈は自嘲気味に笑い、それでもその執着すら今の自分の糧に変える、と腹の底で決めた。

今回の対象疾患は希少例が多い。中には杏奈が過去に扱ったテーマもあり、読み込みは思った以上にスムーズだった。

約束の時刻ぴったりに到着し、車内で軽く化粧を直す。資料を抱え、胸を張って茶室へ入った。受付で予約名と部屋を確認し、店員に案内される。

すぅ、と息を吸って。

襖を勢いよく開け、笑顔を作る。

――次の瞬間、その笑みが凍りついた。

「……どうして、あなたがここにいるの」

杏奈の言葉より先に、低く荒い声が飛ぶ。

「おまえこそ、何でここにいる」

葉山陸斗だった。眉間に皺を刻み、苛立ちを隠しもしない。

彼は杏奈の地味な服装を一瞥し、すぐに決めつけたらしい。勤務時間に自分を追ってきた、と。

「口では離婚だ何だ言っておいて、やることは逆か。仕事中に尾行して、ここまで来たってわけだな」

昨日から今日にかけて、陸斗は仕事を病院に持ち込み、菊地美波に付き添っていた。今日の面談予定がなければ、まだ病院にいたはずだ。

杏奈の胃が、ぐらりと揺れた。

教授が言っていた協力先――その責任者が、葉山陸斗。

相手の詳細を確認しなかった自分の落ち度だ。研究内容ばかり追い、肝心な名前を聞き漏らした。

「自意識過剰。あなたに会うために、こんな遠くまで来る価値ない」

杏奈は踵を返し、さっさと出ていこうとする。

だが陸斗は椅子を蹴る勢いで立ち上がり、すぐ背後に回って腕を掴んだ。

「ちょうどいい。探す手間が省けた。菊地美波はおまえのせいでまだ入院してる。昨日、病院であんな真似をして辱めた。度が過ぎる」

「離して」

杏奈は乱暴に振りほどき、数歩下がって距離を取る。声は冷たい。

「自作自演よ。私に関係ない。菊地美波の指一本、触れてない。どうやって傷つけるの?」

鼻で笑う。

「あなた、本気で脳を診てもらったら? 病院に行ったんでしょ。ついでに診察受けるくらい簡単じゃない。……それとも葉山陸斗、診察代も払えないほど落ちぶれた?」

陸斗の顔が露骨に歪む。ネクタイを緩めかけ、すぐ手を止めた。これから客と会うつもりなのだろう。

「……狂ったか」

嫌悪が滲む声。

「菊地美波はおまえの妹だ。何があろうと謝れ。命に関わる。もし本当に何かあったら、俺はおまえを許さない」

約束の時間が迫っているのだろう。焦りが言葉の端に混じっていた。面会相手に見られる前に、この騒ぎを片づけたい。そう透けて見える。

杏奈は顎を上げた。

「寝言は寝て言って」

そして、きっぱりと言い切る。

「私はやってない。謝らない。菊地美波が自殺? 信じるのは、あなたみたいな間抜けだけ」

杏奈は一歩も引かない。

「そんなに心配なら、さっさと離婚協議書にサインして、離婚届を出しに行けばいい。菊地美波を24時間そばに置いて、張り付いて守ってあげなよ。そうすれば何も起きないでしょ」

言い捨てて、杏奈はそのまま去った。振り向かない。

廊下に残された陸斗は、怒りで胸を上下させながらも、その場で立ち尽くすしかなかった。仕事がある。ここで爆発させるわけにはいかない。

襖の陰から秘書が恐る恐る顔を覗かせる。巻き込まれたくない、という表情そのままに。

車へ戻った杏奈は、助手席に資料をどさりと投げた。すぐさま教授へ電話を入れ、事情を説明し、別の人員を派遣してほしいと頼む。

プロジェクト自体は素晴らしい。

ただ、あの男と同席して交渉などできるわけがない。

『……相手が葉山陸斗だと?』

教授の声にも驚きが混じる。だがすぐに、杏奈の要請を受け入れた。

「先生、別の先輩に変えてください。洽談の余計な面倒が減ります」

菊地美波の「発作」を思い出し、杏奈は率直に助言する。教授も同意した。

通話を終えると、杏奈は駐車場で一度呼吸を整え、車を出した。

一方、茶室に残っていた葉山陸斗にもほどなく連絡が入る。

研究室側の後輩が面会を拒否し、協議は延期――そう告げられた。

さっきまでの怒りが、そのまま別種の苛立ちに変わる。

約束しておいて、時間直前に拒否?

特殊症例に関心がなければ、こんな時間を割くはずがないのに。

机に置いたスマホの画面が暗くなる。そこに映ったのは、怒りで歪んだ自分の顔。

秘書が震えた声で切り出した。

「しゃ、社長……日程が変わったのなら、いったん戻りましょうか。会社に書類が溜まっており……」

鋭い視線が刺さり、秘書は言葉を飲み込んだ。

「戻るぞ」

葉山陸斗は乱暴に立ち上がり、怒気を引きずったまま茶室を後にした。

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