第1章

八月。夏の暑さがピークを迎え、街じゅうがむっとする熱気に包まれ、どこにも逃げ場がない。

――昨夜、突然の雨が頭から叩きつけるように降るまでは。

鈴木結月は窓際のソファに身を沈め、本を手にしたまま、視線だけを床まで届く大きな窓の外へ向けていた。午後になって雨脚はまた強まり、今も衰える気配がない。

蒸し返すような暑さを、刃物みたいな豪雨が真っ二つに切り裂いていく。熱は引き、窓越しでもひんやりした空気が伝わってきた。

ぼんやりしていると、ドアの向こうでノックが鳴った。

結月は声を出す気になれなかった。けれど昨日、ソファに寝転んだまま無視していたら、吉田さんが大騒ぎして運転手まで呼び、ドアをこじ開けようとしたのだ。まるで彼女が思い詰めているとでも言いたげに……。

同じことを繰り返すのは面倒だ。

「……入口に置いといて。あとで食べる」

吉田さんは結月の声を聞いて少し安心したのか、果物の皿を床に置いた。だが去り際、もう一度ドアを振り返り、気の毒そうに首を振っていく。

鈴木家は金持ちだ。住んでいるこの家だけでも何千万という価値がある。吉田さんみたいな人が結月を憐れむ筋合いなんて、本来はない。

それでも三日前、結月が高熱を出しても両親は誰ひとり顔を見せず、熱が下がった後の彼女は部屋に鍵をかけて閉じこもった。

吉田さんから見れば、あまりにも可哀想だったのだろう。父にも母にも愛されない子。

しかも使用人も運転手も皆知っている。鈴木慶信と井上友里子が、今まさに離婚をめぐって揉めていることを。

結月は窓から視線を引き、少し首を傾けて、隣の姿見に映る自分を見た。

真っ白なネグリジェ。一度も染めたことのない濃く艶やかな黒髪が、肩にさらりと落ちる。頬の輪郭は丸みを帯びて美しく、肌はほんのり桃色を含んだ白。大きな黒い瞳は澄んで潤み、ガラス玉みたいに汚れがない。

その清純で眩しい姿が、結月を一気に十年前へ引き戻した。

三日前。高熱の中で目を覚ました結月は、最後の記憶が事故だった。乗っていた車が衝突し、全身が痛みに軋み、意識が闇に沈んで――。

なのに次に目を開けた場所は、十年前に住んでいたはずの自宅の別荘だった。鏡に映る顔を見て、呆然として、信じられなくて。それでも、ようやく確信した。

――生まれ変わった。

――十七歳の自分に戻っている。

二度目の人生という衝撃は大きすぎて、結月は三日間、一歩も部屋を出なかった。けれど雨音に混じって車の音が聞こえた瞬間、身体が勝手に動いた。

二階の窓辺に立つ。部屋は門に面していて、入ってくる車がよく見える。

皮肉なほど都合よく、高熱のときには姿も見せなかった両親が、今になって前後して帰ってきた。

鈴木慶信と井上友里子の結婚が完全に破綻したのは、結月が新学期を迎える直前。結月は覚えている。

この人生でも、戻って早々に離婚劇を目撃することになるらしい。転生して変えたいことは山ほどあるが、両親の離婚を止める気はなかった。

すぐには下りなかった。階下から、カチャカチャと物がぶつかる音が聞こえてきたからだ。

しばらくの沈黙の後、結月は立ち上がった。

転生して初めて、部屋のドアを開ける。階段を下り、踊り場からリビングを見下ろした。

鈴木家の内装は上品で、金の匂いがするほどだ。慶信も友里子も、金に困るような人間じゃない。

だが今は、椅子もテーブルも、壁に掛けられた絵にまで付箋が貼られていた。赤い付箋には「井上友里子」。母の名。

少し離れた青い付箋には「鈴木慶信」。父の名。

友里子と慶信はリビングで向かい合って座っていた。ソファは友里子が買ったものだから、慶信には座る資格がない。彼は自分が買った椅子に腰を下ろしている。

顔色は意外と穏やかだった。罵り合いは、もう済ませた後なのだろう。

友里子が冷静に言う。

「私が買ったものは全部持っていく。子どもも、これからは私と暮らす」

慶信が顔を上げ、わずかに不快そうに言った。

「なんで子どもが君のものになる」

結月は、自分に貼られる付箋は赤か青か――そんなことを考えながら、黙って聞いた。前の人生の離婚のとき、彼女はその場にいなかった。

友里子は結月を井上家に二か月預け、戻った頃には財産も彼女自身も、きっちり分けられていた。結月は母についていき、慶信は毎年多額の養育費を払った。

結月は遠目に慶信を見た。挑発の色が顔に浮いている。彼は本気で結月を欲しがっているわけじゃない。友里子が欲しいものを、素直に譲る気がないだけ。

長年の結婚生活で染みついた癖だ。

友里子が顔をしかめる。

「あなたについていって、どこの馬の骨かも分からない女を母親として認めろって?」

「言い方があるだろ」

核心を突かれた慶信は苛立ったが、どうにか抑えた。

友里子は薄く笑う。

「言い方? あなたのやり方のほうがよっぽど下品よ。まだ離婚もしてないのに、我慢できずに連れ歩いて」

慶信は尾を踏まれた猫みたいに声を荒げた。

「調子に乗るな」

友里子はもう取り合う気もないらしく、吐き捨てる。

「子どもは私。あなたは金を出す。それでいい」

慶信は「分かった」と言いかけて、階段口に立つ結月に気づき、軽く咳払いした。

「結月もいる。本人に選ばせよう」

結月は、十年後よりずっと若い慶信を静かに見つめた。

前の人生、離婚後の慶信はすぐに次の妻を迎えた。正確には、その女のために離婚を急いだ。

友里子も結月もいなくなり、慶信は新しい妻と、その連れ子の娘と、あっという間に「幸せな家族」を作った。

結月にとって、それ自体はどうでもよかった。友里子の厳しいしつけのもと、彼女は高校卒業後スタンフォードへ進み、卒業後はウォール街の投資銀行へ。二十六で帰国した。

ところが仕事でB市へ行ったとき、「鈴木家のお嬢さま」と呼ばれているのが、父の再婚相手の娘だと知った。その女は結月の持ち物を横取りし、外では好き勝手に振る舞い、挙げ句の果てには本人を前にしても偉そうな態度を取った。

結月は見栄や評判に興味はない。だが、自分のものを奪われるのは別だ。

しかも友里子は離婚後、男に対してすっかり冷め、再婚もしなかった。それを「まだ慶信に未練がある」と勘違いした父の再婚相手が、何度も友里子の会社に嫌がらせをした。

奪うのが簡単すぎたせいで、罪悪感すら持たず、本来持ち主である結月の前でも堂々と偉そうに振る舞うようになったのだ。

結月が母娘を叩き潰す前に、彼女自身が生まれ変わった。

三日間、部屋に閉じこもって考えた。十年間、友里子の要求に応えるため必死に努力し、ようやく積み上げたものを――一夜にしてゼロに戻された気分。

意味が分からなかった。なぜ自分は戻されたのか。

だが今、慶信の顔を見て理解した。

あまりにも都合よく生きて、罰を受けない人間がいる。神様ですら腹を立てたのだ。だから自分を戻した。あいつらを、不幸にするために。

奪ったものは、返させる。

「結月、どう思う?」

慶信が促す。

結月は思考を引き戻し、男を見た。狙いは分かっている。養育する気なんてない。ただ友里子に勝ちたいだけ。

だからこそ、結月は微笑んだ。

「父さんがいい」

離婚して、子どももいらない。そんな都合のいい話、あるわけない。

慶信は驚いた顔をした。予想外だったのだろう。友里子は鼻で笑った。慶信の考えなどお見通しだった。どうせ結月は自分を選ぶと踏んで、いい格好をしただけだと。

慶信は友里子の嘲るような笑みに応じるように笑い、嬉しそうに言った。

「よく言った。さすが父さんのいい子だ。失望させないな」

結月は従順そうに微笑み返す。

――その笑顔、いつまで続くかな。

半月後。

結月が空港を出たとき、荷物はほとんどなかった。背負っているのはリュックひとつ。

離婚後、慶信はすぐB市へ戻り、結月は祖父母の家で半月過ごした。

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