第4章

 彼女は声を上げ、もうひと言だけ弁解しようとした。本当にうっかり車を間違えただけで、しかもスマホの電池が切れて運転手にも連絡できなかったのだ、と。

 だが、高橋悠人はその「お兄さん」という呼びかけを耳にした途端、わずかに眉を寄せた。反射的に身を乗り出し、面白がるような目で彼女を覗き込み、口角をつり上げて、のんびり返す。

 「ん?」

 鈴木結月は、彼が何を言っているのか分からず呆けていた。けれど少年が気だるい調子で、

 「お前、僕のこと『お兄さん』って呼んだ?」

 そう口にした瞬間、雷に打たれたみたいに固まった。

(自分でも、なんでそんな言葉が出たのか分からない)

 普通に「高橋君」でよかったはずだ。なのに、どうしてあのとき、ふざけて「お兄さん」なんて口走ってしまったのか。

 高橋悠人を前に、結月は顔を真っ赤にしながら、必死で言い訳を組み立て始める。

 その間に高橋悠人は、彼女が口を開くのを待たずに体を起こした。ちらりと後ろを振り返り、運転席のドアを開ける。

 「行くぞ」

 鈴木結月は一瞬きょとんとし、遠くで続く殴り合いに目を向けた。あの連中は放っておくつもりなの?

 けれど高橋悠人は行動で答えた。本気で帰る気だ。エンジンがかかり、車が動き出す。

 腕時計に目を落とす。五分。二つのグループはまだ絡み合ったまま、離れる気配もない。西村夏輝には「喧嘩で熱くなるな、長引かせるな」と前から言ってある。だから悠人は、そのまま車を出した。

 そのとき、遠くからかすかにサイレンが聞こえてきた。

 車はゆっくり前へ転がっていく。結月も当然その音に気づき、少し迷ってから小さく言う。

 「このまま行っちゃうの?」

 前の少年が淡々と返す。

 「お前、あいつらと一緒に警察署に行きたいのか」

 だが、殴り合っていた少年たちもサイレンに気づいたらしい。とくに西村夏輝がこちらへ突っ込んできて、喉が裂けそうな声で叫んだ。

 「悠人さん、待って!」

 しかし路肩の車は、彼が追いつく前に矢みたいに飛び出した。残ったのは、もわっとした排気だけ。

 「住所」

 運転席から、そっけない声。

 鈴木結月はわずかに目を見開き、聞き返す。

 「……なんで?」

 高橋悠人は、可笑しいものでも聞いたみたいに、後ろのミラー越しに彼女を一瞥した。

 「車、間違えたんだろ。送ってやる」

 そして、さらりと付け足す。

 「困ったときはお互い様。お安い御用だよ」

 鈴木結月は言葉を失った。

 結局、結月は住所を告げ、後部座席で黙って座っている。

 ちょうど赤信号。高橋悠人は停車しながら、何気なくミラーを見た。後ろの結月はおとなしく座っている。デニムのショートパンツから伸びた脚が、細くて白い。

 その瞬間、さっきの呼び声が脳内で再生された。

 お兄さん。

 ……くそ、声がやけにいい。しかも柔らかい。

 鈴木家の別荘の前に着いたのに、結月は中へ入れなかった。以前も何度か泊まったことはあるが、この警備員は彼女を知らない。鈴木慶信の名を出しても、相手は疑わしげな顔のままだ。

 幸い、警備員のおじさんは人がよかった。女の子だし、もう夜も遅いからと、警備員室で待つよう促してくれる。

 結月はそこでスマホを充電し、電源が入ったら運転手に電話しようと思った。

 警備員室の中から外の家を眺めていると、ふっと可笑しくなる。この家は鈴木慶信のものなのに、実の娘である自分が門前払いを食らっている。

 やがてスマホが起動し、通知が一気に跳ねた。運転手からの着信が十数件。

 結月は少し考えてから折り返す。

 「もしもし、鈴木結月です」

 「お嬢様、どちらにいらっしゃいますか」

 運転手は今にも泣き出しそうな声だった。社長の娘を迎えに行って、危うく見失うところだったのだ。止められなければ、もう警察に駆け込んでいたに違いない。

 結月は焦りを聞き取り、やわらかく言う。

 「空港の駐車場で、私が間違えて別の車に乗っちゃって。でも今は家の前にいるの。悪いけど迎えに来てくれる?」

 「はい、はい! すぐ行きます。門のところでお待ちください、すぐ、すぐです」

 ほどなくして運転手が警備員室の外に現れ、結月は立ち上がった。

 運転手は入ってくるなり、大の男が本当に泣きそうな顔で頭を下げる。

 「お嬢様……私の不手際で……ご無事で、本当に……」

 結月は慌てて首を振った。

 「私のほうが悪いの。空港で乗り間違えただけだから。そんなに自分を責めないで」

 運転手は彼女が無傷なのを確認して、ようやく息をついた。そして急いで結月を家へ案内する。

 別荘へ入ると、玄関をくぐったところで、奥から話し声が聞こえた。

 「絶対わざとだよ。ママに恥かかせるつもりなんだって」

 甘ったるい少女の声。

 すぐに、落ち着いた大人の女の声がそれを遮る。

 「やめなさい。勝手なこと言わないの」

 橋本理子は、鈴木結月の件で頭を抱えていた。というより、結月の親権が鈴木慶信に渡ったと知ってから、ずっとこのことが引っかかっている。

 けれど反対の色は一切見せられない。

 理子はただの大学のダンス講師だった。鈴木慶信と一緒になって、ようやく今の生活を手に入れた。慶信の元妻が相当な強さの女だと知っているからこそ、理子は終始やわらかく、何事も彼を立ててきた。

 鈴木慶信の目には、素朴で気が利く女に映っているはずだ。

 だからこそ、彼の娘が一緒に住むのを嫌がる素振りなど、見せられるはずがない。

 なのに初日から事故が起きた。運転手が迎えに行って、肝心の本人を見失ったのだ。理子は運転手を押さえつけて通報させなかった。今夜、鈴木慶信は接待でまだ戻らない。帰宅までに見つけ出し、何事もなかったことにしたかった。

 そうしなければ、自分の監督不行き届きは免れない。

 娘の橋本美月は、母の沈んだ顔を見て察していた。まだ会ってもいないのに、この「妹」が気に入らない。きっと結月がわざと母に恥をかかせているのだ、と。

 それぞれの思惑を抱えたまま、結月は運転手に続いてリビングへ入った。

 運転手が口を開く前に、橋本理子は二人を見た瞬間、ソファから立ち上がった。笑みを濃くして言う。

 「あなたが結月ちゃんね」

 橋本美月も顔を上げる。たった一目で、胸の奥の好奇心が、すぐに嫉妬へ変わった。

 女の子同士は、どうしたって容姿を比べる。美月は若い頃の理子によく似ていて、小さな顔に大きな目。自分の見た目には自信があった。

 学校でもずっと「美人候補」の一人だ。トップになりきれないのは、同じくらい票を集める相手がいるからで――。

 けれど今回は違った。一目で認めざるを得ない。相手は、はっきり綺麗だ。

 とくに結月の肌。リビングのシャンデリアの光を受け、透けそうなほど白い。

 結月は余裕のある顔で母娘を観察し、美月の瞳に隠しきれない嫉妬を見つけると、わずかに笑った。

 「はじめまして」

 丁寧ではある。けれど、どこか上滑りした挨拶だった。

 理子は気にしない。初対面でぎこちないのは普通だ。だが隣の美月は、白目が天井まで行きそうな勢いで吐き捨てる。

 「挨拶だけ? 呼び方ってもの、知らないの」

 「美月!」

 理子が鋭く制した。

 もともと不機嫌だった美月は、叱られたことで余計に腹が立ち、勢いのまま言い放つ。

 「だってそうでしょ。お母さんって呼ばないなら、せめて『おばさん』くらい言えばいいのに」

 理子は今度は止めなかった。自分の口からは言いにくいことも、娘の口なら出せる。

 結月が自分を母と呼ぶかどうかはどうでもいい。けれど今、この家の女主人は自分だ。頭を下げさせられないにしても、立場くらいは分からせたい。

 だが結月は怒らなかった。二度目の人生を生きている身だ。

 まぶたを少し持ち上げ、美月を見返す。静かな表情の端に、笑うようで笑わない色が浮かぶ。

 そして――「ふっ」と小さく息を漏らした。

 かすかな笑い声なのに、聞く者が聞けば、侮りと軽蔑が滲んでいる。

 前の人生で、結月はこの母娘に会ったことがなかった。十年後、戻ってきて初めて対面したのだ。鈴木慶信が十年かけて欲張りにしたのだと思っていた。けれど違う。何を手に入れたがっているのかは、最初から顔を見ればわかった。

 そのとき、玄関のほうでドアが開く音がした。足音が近づいてくるのを背中で感じた次の瞬間、結月は声をぐっと落とし、少しだけ傷ついたような口調で言った。

 「……これからは、ちゃんと気をつけるね」

 「どうした?」

 背後から、鈴木慶信の声がちょうど重なる。

 理子は、このタイミングで帰ってくるとは思わず、反射的に口を開きかけた。だが結月が振り返り、大きな瞳を無垢に見開いて首を振る。

 「大丈夫だよ、父さん。橋本おばさんが、私に教えてくれてただけだから」

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