第5章
鈴木結月の顔は、やけに人を騙す。ひと目にはおとなしくて素直そうに見えるし、とくに今みたいに無垢で、どこか可哀想げな表情をされると、声までふわりと柔らかく聞こえてしまう。
なんて聞き分けのいい子なんだろう。
鈴木慶信は眉をひそめ、不快そうに橋本理子を見た。結月が今日ここへ来たばかりだというのに、理子が「教えた」と言ったのを、彼は勝手に「叱りつけた」と受け取ったらしい。
「結月はまだ来たばかりで勝手が分からないんだ。昔から素直で手のかからない子だし、年上なんだから、ちゃんと面倒を見てやってくれ。何かあっても、落ち着いて話せばいい」
言葉自体はきつくない。けれど橋本理子にとっては、頭上に雷が落ちたような衝撃だった。新婚なのに、鈴木慶信がこんな口調で自分を咎めたことは一度もない。
橋本美月は、母が損をしたと感じたのだろう。すぐにむっとして言い返す。
「父さん、母さんを責めないで。心配だったから、ああなっただけだよ」
そう言われれば当然、鈴木慶信は理由を問う。
「何があった?」
「今日、母さんが早めに運転手さんを空港に行かせたのに、結月はその車で帰ってこなかったの。ひとりでどこかに行っちゃって……私たち、ずっと心配してたんだよ」
美月は口が早い。空港の件を一気に吐き出してしまい、理子が止める暇もなかった。
案の定、鈴木慶信の眉間がさらに深くなる。彼は結月へ向き直った。
「結月、どうして運転手の車に乗らなかった?」
結月は小さく笑い、乗り間違えた経緯をさらりと説明した。そして薄く笑ったまま言う。
「父さん、運転手さんを責めないで。私が間違えただけだから」
その瞬間、鈴木慶信が橋本理子を見た。顔に、隠しきれない不満が浮いている。
理子はそこでようやく思い出した。鈴木慶信は、結月を空港へ迎えに行けと自分に言っていたのだ。だが年上の自分が小娘を迎えに行くなんて、という意地が勝って行かなかった。
鈴木慶信は、理子が迎えに行くかどうか自体をそこまで重く見ているわけではない。ただ、自分の意向に逆らわれるのが嫌なのだ。
理子は、今は何を言っても自分の立場が悪くなるだけだと悟り、話題を変えた。
「結月、長いフライトで疲れたでしょう。先に部屋で休んだら?」
立ち上がり、愛想よく続ける。
「さあ。おばさんが新しい部屋を用意してあるから」
けれど結月は、「新しい部屋」という言葉に敏感に反応した。B市に来る回数は多くないが、来たことがないわけじゃない。休みのたびに泊まったこともある。ここには、もともと自分の部屋があったはずだ。
新しい部屋――じゃあ、元の部屋は?
結月はその場から動かない。理子が二歩ほど進んでから、ついて来ていないことに気づいて振り返る。
「どうしたの、結月?」
「私、2階に部屋があったと思うんだけど」
結月は落ち着いた声で言った。
その一言で、美月の心臓は喉まで跳ね上がった。結月の部屋は、今、美月が使っている。引っ越してきた初日から、あの部屋が気に入ってしまったのだ。
ピンクにレースをあしらった二重カーテン。ふんわりとした印象のシャンデリア。床に敷かれた白くてふかふかのラグは、踏みしめると雲の上みたいに柔らかくて――。
結月が来ると聞いたとき、理子は「部屋を返しなさい」と言った。だが美月が泣いて喚いて、理子は折れた。結局、結月には別の部屋を用意することになった。
結月が上に上がって部屋を見れば、もう自分は住み始めていて、今さら騒げないだろう。そう踏んでいたのに――よりにもよって、鈴木慶信の前でこんなふうに直球で言われるとは。
理子は一瞬、言葉に詰まった。
「ごめんなさいね、結月。あなた、ずっとこちらにいなかったでしょう? あの部屋は空いてたから、もったいないと思って……美月に先に使わせてたの」
結月は、最初からそこまで怒っていたわけじゃない。けれど、その白々しい言い訳を聞いた途端、喉の奥で冷たい笑いが立った。
つまり、自分は美月に感謝でもしろと言いたいのか。
結月は母娘を見て、淡々と言う。
「私が戻ってきたなら、部屋も空けてもらうべきだよね」
美月は唇を噛み、理子へ縋るような目を向けた。どうにかして、部屋を守ってほしい。
理子は顔を引きつらせる。
「もう遅いし、今日は先に休んだら?」
今夜だけやり過ごせば、明日になれば結月も言い出しにくくなる――そんな算段だ。
「私の部屋だよ」
結月の声が、氷みたいに冷たかった。
鈴木慶信は眉を寄せた。たかが部屋ひとつで、夜更けに大騒ぎする必要はない――そう言いかけた、そのとき。
結月の目元が赤く染まった。必死に堪えているのが分かる。堪えきれなくなった一粒が、まばたきの瞬間、目尻からぽとりと落ちた。
結月は小さくすすり上げる。
「父さん……家に部屋はたくさんあるのに、どうして私のだけ奪うの。私、ここで自分の部屋ひとつも持てないの?」
あまりにも悲しそうなその声に、鈴木慶信は一瞬、言葉を失った。
結月はもともと頑固な子だ。幼い頃、井上友里子にどれだけ叱られても泣かなかった。娘は父にとって可愛い姫で、甘えて泣いて、ねだって――そんなものだと世間は言うのに、鈴木慶信は結月がそれをするところをほとんど見たことがない。
だからこそ、泣かれた瞬間に思ってしまった。これは本当に、傷ついているのだと。
鈴木慶信は反射的に叱りつけた。
「それは結月の部屋だろう。どうして勝手に他人を住まわせるんだ」
他人。
その一言が、美月の顔を真っ赤にした。泣き出しそうに唇が震える。
結月は、慶信が我先にと庇う姿を見つめ、ふっと腑に落ちた気がした。手の甲で目尻を拭い、口元が無意識に持ち上がる。
泣く子は得をする。
演技が拙くても、信じたがる馬鹿はいる。
そして、ここからが橋本美月にとっていちばん屈辱的な時間だった。
時間も遅い。理子は使用人を呼び、皆で美月の荷物を運び出させた。結月に用意した部屋だって悪くはない。けれど美月は、その部屋を見ても胸の奥が破裂しそうだった。
最後の荷物を結月の部屋から出し終えたとき、扉口に立つ結月が突然言った。
「待って」
美月は振り返り、歯を食いしばる。
「……まだ何かあるの?」
「その首のネックレス」
結月は美月の首元に視線を落とす。夏だから、チェーンがよく見えた。
「それ、私のだよね」
美月の身体が固まった。
引っ越してきたとき、ドレッサーの宝石箱で見つけたものだ。こんなに綺麗で華奢なネックレスを、誰が置き忘れるんだろう――そう思ったのを覚えている。
結月は手を差し出し、淡々と言った。
「返して。今すぐ」
美月は奥歯が砕けそうだった。それでも手に持っていた荷物を下ろし、ネックレスを外して結月へ差し出す。
結月はそれをつまみ上げた。ペンダントの小さなダイヤが、照明を受けてきらきらと光る。
美月が屈んで荷物を抱え直そうとした、そのとき。
向かいの結月がふいに腕を上げた。ネックレスは空を切って弧を描き、2階の廊下の突き当たりにある窓の向こうへ消えた。
美月が思わず声を上げる。
「……あっ!」
あのネックレスをつけて友だちに会うたび、皆が羨ましがって褒めた。石だって本物だと、分かる子には分かる。
結月はまっすぐ美月を見た。わざとだ。思い知らせるために。
「私がいらないものを、あなたが持つ資格はない」
始業式まではまだ日があった。結月の周りは静かだった。美月がずっと部屋に籠もって、ほとんど顔を出さなかったからだ。
けれど始業式の前日、結月が階下でヨーグルトを手に取り、飲みながら階段を上がっていると、美月の部屋から泣き喚く声が聞こえた。ドアがきちんと閉まっていない。
「学校、いくらでもあるのに……なんであの子と同じところなの。嫌だ、嫌だよ!」
美月の泣き声が、隙間から漏れてくる。
理子はすぐに叱った。
「いい加減にしなさい。これは鈴木おじさんの決めたことよ」
美月が通う四高は、B市でも指折りの進学校だ。枠は少なく競争も激しい。どれだけの親が必死になって子どもを入れようとするか。
美月がそこに通えているのも、鈴木慶信の伝手があったからだ。高校受験の頃、理子はすでに慶信と付き合っていた。ただし当時は、まだ夫婦ではなく、曖昧な関係だった。
慶信は理子への埋め合わせのつもりで、美月の点が足りなくても四高にねじ込んだ。
そして今、結月がB市で学ぶなら四高へ行くのは当然だった。
「結月が来るなら、私、学校行かない!」
美月が捨て鉢に叫ぶ。
理子はとうとう甘やかすのをやめ、きつく睨みつけた。
「黙りなさい。何を騒いでるの。あの子は鈴木おじさんの実の娘よ。あんたが『父さん』って呼んでるからって、鈴木結月と同じになれるとでも思ってるの?」
あまりに容赦のない言葉だった。美月は凍りついたように動けなくなる。
悔しさが込み上げ、しゃくり上げる。ここ数日、美月が部屋に籠もっていたのは、あの日この家の全員に見られたからだ。結月の部屋から、みっともなく荷物を抱えて追い出される姿を。
本物の鈴木家のお嬢さまが戻った瞬間、偽物は一気に化けの皮が剥がれた。
美月の胸の奥で、憎しみが血のように滲んだ。
