第2章 ゲームのルール
パーティーの喧騒から逃れ、桐生家の壮麗な邸宅に戻ったのは、すでに深夜を回った頃だった。
春原花音が最後に放った言葉が、耳の奥で不気味に反響している。
——『桐生のお嬢様が、自ら引くなんて』。
あれは、ただのインターン生が口にするにはあまりに不遜で、全てを見通しているかのような響きがあった。まるで、舞台の上で踊る役者の動きを、客席から冷ややかに眺める観客のようだった。
翌朝、私は会社へは向かわず、父の書斎の重厚な扉を叩いた。マホガニーのデスクの向こうで、父である桐生正雄が書類の山と格闘している。壁にずらりと並んだ歴代当主の肖像画が、静かに私を見下ろしていた。
「お父様、おはようございます」
「沙耶香か。珍しいな、こんな時間に。会社はどうした?」
父は意外そうに顔を上げた。
「神崎様との婚約について、少しお話を伺いたくて」
私は父の向かいの椅子に深く腰を下ろした。
「昨夜のパーティーで、自分がこの縁談の持つ意味を、あまりにも理解していなかったと痛感いたしましたの」
父はペンを置き、探るような目で私を見つめる。
「お前から家業の話が出るとはな。今までは、次のパーティーで着るドレスの色を決める方がよほど大事だったというのに」
その皮肉な口調は、的を射ていた。ゲームの中の「桐生沙耶香」は、ビジネスの駒としての自分を自覚せず、ただ盲目的な恋に溺れる愚かな女だったのだから。
「これまでの自分の振る舞いを、心から恥じているのです」
私は完璧な反省の表情を浮かべ、もっともらしい理由を並べた。
「桐生家の人間として、あまりに未熟でございました」
その言葉に、父は満足げに頷いた。
「ようやく目が覚めたか。良いか、沙耶香。お前と凛太郎様の婚儀は、桐生と神崎、両グループの未来を左右する。いかなる手違いも許されん」
「具体的には、どのような状況なのでしょうか?」
「昨今の市場は、我々のような伝統的な財閥にとって逆風だ。新興勢力が次々と台頭し、我々の牙城を脅かしている。桐生と神崎が盤石な同盟を結ぶことで、初めてその脅威に対抗できる」
父の表情が、にわかに険しくなる。
「……それに、厄介な噂も耳にする。平民出身でありながら、驚異的な先見性で頭角を現しているインターン生がいる、と」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。平民出身のインターン生——春原花音、その人に違いない。
「お父様。もし……もし、わたくしが凛太郎様との結婚を望まないと申しましたら?」
私は探るように、そう尋ねた。
「馬鹿を言うなッ!」
父はデスクを叩き、勢いよく立ち上がった。その巨躯が、威圧的な影を落とす。
「これは、お前が物心つく前から定められた契約だ! 両家の存亡がかかっているこの局面で、個人の感情など差し挟む余地はない!」
父の激昂ぶりは、この政略結婚が私の想像を遥かに超えて重要であることを物語っていた。ゲームの設定以上に、この世界は切迫しているのかもしれない。
「……申し訳ございません。この縁談が我が家にとってどれほどの意味を持つのか、改めて確認したかっただけですわ」
父は荒い息を整え、重々しく椅子に座り直した。
「覚えておけ。お前は桐生家の令嬢だ。家の利益こそが、お前の利益なのだ」
書斎を出た私は、そのまま車を桐生グループ本社へと走らせた。
四十八階建てのガラス張りのビルが、朝の光を浴びて摩天楼の間にそびえ立っている。
インターン生が詰めるオフィスエリアは十五階。普段の私が足を踏み入れることなど、万に一つもない場所だ。目的はただ一つ、春原花音をこの目で観察するため。
ガラスのパーテーション越しに、すぐに彼女を見つけた。数人の同僚に囲まれ、何かを熱心に説いている。服装は質素だが、その立ち居振る舞いには、周囲の学生とは一線を画す自信と落ち着きが満ちていた。
「このプロジェクトは『買い』です。今投資しなければ、半年後には必ず後悔しますよ」
春原花音の凛とした声が、ここまで聞こえてきた。その言葉には、未来を知る者だけが持ちうる、絶対的な確信が宿っていた。あれは、二十歳の少女が持つべきビジネスセンスではない。
不意に、彼女は私の視線に気づき、こちらを振り向いた。目が合った瞬間、その唇に完璧な笑みが浮かぶ。
「桐生お嬢様。このような場所まで、何かご指導でしょうか?」
彼女の方から、丁寧だがどこか挑発的な口調で話しかけてきた。
「いいえ。ただ、あなたが噂以上に……『特別』な方なのだと感じただけですわ」
私はわざと曖昧な言葉を使い、彼女の反応を探った。
「お褒めにいただき光栄ですわ」
春原花音は、その笑みをさらに深めた。
「わたくしはただ、時代の流れを読むのが少し得意なだけですので」
間違いない。彼女もまた、転生者。そして、未来の知識という圧倒的なアドバンテージを手にしている。
「お仕事、頑張ってちょうだい」
私はそれだけ告げると、その場を後にした。
自らの執務室に戻り、内側から鍵をかける。
桐生沙耶香、悪役令嬢。嫉妬に狂い、破滅する運命。
神崎凛太郎、ヒーロー。ヒロインと結ばれることが定められている。
春原花音、ヒロイン。未来を知る、もう一人の転生者。
そして、シナリオを知る「イレギュラー」な転生者である私は、この盤上でどう動くべきか。
思考の海に沈んでいた、その時だった。
冷たい無機質な合成音声が、静まり返ったオフィスに響き渡った。
『警告。シナリオからの逸脱を検知。修正プログラムを起動します』
私は勢いよく立ち上がり、周囲を見回す。だが、部屋には私以外誰もいない。
「……誰なの?」
私は虚空に向かって問いかけた。
『私はこの世界の調律者たる『システム』。あなたは規定のシナリオを遂行する義務を負う。拒否権はない』
目の前に、半透明の青いウィンドウが音もなく出現した。そこには『強制シナリオ修正システム』という、無慈悲な文字列が浮かんでいる。
全身の血が凍りつく感覚。やはり、いたのだ。この物語を強制する、絶対的な存在が。
「もし、協力しなかったら?」
私はかろうじて声を絞り出した。
『その場合、あなたはゲームの結末よりも遥かに苦痛に満ちた方法で『排除』される』
システムの音声に、感情の揺らぎは一切ない。
『あなたの役割は単純明快。神崎凛太郎に執着し、春原花音との仲を妨害し続け、そして——物語のクライマックスで、華々しく舞台から退場することだ』
「ふざけないで!」
私は怒りに声を震わせた。
「私には私の人生がある! どうしてあなた達が作った筋書き通りに、破滅しなくてはならないの!」
『それが、この世界の法則だからだ。神崎凛太郎と春原花音は結ばれなければならない。それは不変の摂理である』
システムのウィンドウが数回点滅し、掻き消える。オフィスには再び静寂が戻り、まるで今の出来事すべてが幻だったかのようだ。
だが、肌に残る悪寒が、これが紛れもない現実だと告げていた。
椅子に崩れ落ち、高速で思考を巡らせる。
システムの存在は、この世界が抗いがたい力によって支配されている証拠。そして、私という「バグ」は、協力しなければ消去される。
私はよろめきながらバルコニーへ出て、眼下に広がる摩天楼を見下ろした。
どうせ駒として踊る運命なら、ただでは終わらない。誰よりも賢い駒になって、システムの裏をかいてやる。
システムの言葉を、頭の中で反芻する。
——『凛太郎と花音の仲を妨害し、適切なタイミングで退場しろ』。
ならば、その逆をいけばどうなる?
自ら凛太郎との婚約を破棄し、二人が結ばれるための手助けをする。ヒーローとヒロインを誰よりも早く結びつけてしまえば、悪役令嬢の役目も終わるはずだ。そうすれば、私は悲劇の運命から解放されるかもしれない。
「神崎凛太郎、春原花音……」
私は東京の空に向かって、静かに囁いた。
「あなた達が結ばれるのが運命だというのなら、このわたくしが、最速でそれを叶えてさしあげるわ」
私の決意に応えるかのように、脳内に直接、システムの冷たい警告が響いた。
『忠告しておく。いかなる逸脱も、相応の代償を支払うことになる』










