第4章 自ら近づく
私が立てた計画は、実に単純なものだった。
神崎凛太郎は、ゲームのシナリオ通りに動く駒。私が距離を置けば、彼もまた婚約者としての体面を保つ、優雅な距離を保ってくれるはずだ、と。
だが、私のその甘い目論見は、脆くも崩れ去った。
それも、想像しうる限り最悪の形で。
月曜の午前十時。私がオフィスで分厚い契約書に目を通していると、アシスタントの百合子から内線が入った。
『お嬢様、神崎様がお見えです。新しいプロジェクトの詳細について、直接ご相談したいとのことですが』
私の手にしたモンブランの万年筆が、ぴたりと止まる。
「何のプロジェクトですって?」
『両社の横浜における提携案件、と……。ですが、このような件は慣例として企画部が担当するはずでは』
百合子の声にも、明らかな困惑が滲んでいた。
胸の内で、けたたましく警鐘が鳴り響く。ゲームの神崎凛太郎は、完璧なビジネスエリートだ。こんな些細なプロジェクトのために、財閥の跡継ぎである彼自らが足を運ぶことなど絶対にない。そういった雑務は、常に部下に任せるはずだった。
「……お通ししてちょうだい」
私は深く息を吸い込み、平静を装った。
オフィスのドアが静かに開き、凛太郎が入ってくる。今日の彼はダークブルーのオーダーメイドスーツに身を包み、その佇まいは控えめながらも圧倒的な存在感を放っていた。その視線が私と交わった瞬間、私はゲームの中では決して見ることのなかった、深く、そしてどこか切なさを湛えた眼差しをしていた。
「おはよう、沙耶香」
彼は私の向かいの椅子に、まるでそこが自分の指定席であるかのように、優雅に腰を下ろした。
「ご用件は何でしょう」
私は努めて事務的な声を出した。
「このプロジェクトの詳細について、君と話しておく必要があると思ってね」
凛太郎は書類を一部取り出し、テーブルの上に滑らせる。
「特に、投資比率とリスク評価の部分だ」
私は書類に目を通しながら、ますます混乱した。これは確かにごく普通の提携プロジェクトで、神崎グループの規模からすれば、彼が自ら口を出すほどのものでは到底ない。
「このような件は、担当の者に任せればよろしいでしょう」
私は書類を閉じ、彼の瞳をまっすぐに見据えた。
「凛太郎様が、わざわざいらっしゃる必要はございません」
凛太郎の口元が、微かに綻んだ。
「だが、私は君の判断を信頼しているんだ、沙耶香」
その言葉に、私の心臓が不意に跳ねる。彼の声には、言葉では言い表せない甘さが含まれていて、ゲームの中のあの礼儀正しくもよそよそしい完璧な彼とは、まるで別人だった。
「凛太郎様……」
私は冷静さを保とうと必死だった。
「あなたは今まで、こんな些細なことで自ら動くようなことはなさいませんでしたわ」
「それは、多分……」
彼は一瞬言葉を切り、私を射抜くように見つめた。
「君の考えを、もっと知りたくなったからだろう」
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
断言できる。これは絶対に、ゲームの中の神崎凛太郎が口にする言葉ではない。
§
翌日も、凛太郎はやってきた。今度の口実は、市場分析報告書に双方の確認印が必要だという、新入社員にでも任せられるような用件だった。
「最近、お暇なのかしら」
思わず、棘のある言葉が口をついて出た。
「まさか」
凛太郎は楽しげに微笑む。
「ただ、何事も自分でやらなければ気が済まない性分でね」
彼は立ち上がり、私のオフィスの床から天井まである窓辺まで歩くと、眼下に広がる東京の街並みを見下ろした。
「沙耶香、僕たちの間に……何かが足りないと感じたことはないかい?」
私の心臓が、どくん、と大きく脈打つ。その言葉はあまりにも甘く、彼のいつものスタイルとはかけ離れていた。
「……どういう意味か、分かりかねますわ」
声が震えないようにするので精一杯だった。
「コミュニケーションだよ」
彼は振り返り、私を見る。その瞳には、私には読み取れない光が揺らめいていた。
「僕たちは婚約者だというのに、まるで一度も、本当の意味で心を通わせたことがないようだ」
心を通わせる? 神崎凛太郎が、この私——桐生沙耶香と?
そんなこと、ゲームでは絶対にありえない展開だ。
§
三日目の午後、凛太郎からコーヒーの誘いがあった。場所は、ホテルのラウンジだった。
私は窓際の席で彼を待ちながら、ここ数日の異常な出来事を反芻していた。凛太郎の行動はますますゲームのシナリオから逸脱しており、それが私を深い不安の渦に引きずり込んでいく。
「待たせたかな」
凛太郎の声が背後から聞こえた。
振り返ると、彼がカップを二つ持ってこちらへ歩いてくるところだった。そして、そのうちの一つを私の前に置いた時、私ははっと息をのんだ。
「いつもの、砂糖少なめ、レモンスライス入りのアイスコーヒーだよ」
彼は私の向かいに座り、その口調には親密な響きがこもっていた。
私は驚きのあまり、目の前のグラスを見つめた。確かに、砂糖少なめ、レモンスライス入りのアイスコーヒー。私の好きな飲み方だ。だが、問題は……。
「あなた……どうして、そんなことまでご存知なの?」
私の声は、自分でも分かるほど震えていた。
ゲームでは、桐生沙耶香のコーヒーの好みなんて、一度も言及されていない。そんなディテールは、どのシナリオにも存在しないのだ。
凛太郎は私を見て、愛おしむように目を細めた。
「君のことを、ずっと見ていたからね。それに、君は緊張するといつもブレスレットを回すだろう。今みたいに」
私は視線を落とし、自分が無意識に手首のパールブレスレットをくるくると回していることに気づく。慌ててその手を止めた。
「わたくしに……そんな癖、ありましたかしら」
思わず問い返してしまう。
「あるよ」
凛太郎の眼差しが、さらに深みを増した。
「ずっと昔からね」
ずっと昔から?
私たちの婚約は随分前に決まっていたが、私的に会う機会はそれほど多くなかったはずだ。彼が、どうして私のこんな些細な癖を知っているというの?
しかもその癖は……ゲームにすら、設定されていないのに。
「凛太郎様、あなたは……」
何かを問いただそうとしたが、言葉が喉の奥でつかえてしまった。
彼は私の言い淀む様子を見て、その目に複雑な感情をちらつかせた。
「聞きたいことがあるなら、はっきり言うといい」
「……何でもありませんわ」
私は首を振り、コーヒーを一口飲んだ。彼の視線から逃れるように。
§
夕暮れ時、凛太郎は神崎家のプライベートガーデンを散歩しないかと提案してきた。
夕陽が沈みかけ、桜の花びらが風に舞う。小道の両脇に並ぶ石灯籠が、柔らかな光を放ち始めた。絵画のように美しい景色なのに、私の心は少しも落ち着かなかった。
「知っているかい、沙耶香。僕はいつも、僕たちの間には特別な繋がりがあるように感じているんだ」
凛太郎が不意に口を開いた。その声は夕闇の中でことさら甘く響く。
「……どういう意味ですの?」
私は足を止め、警戒しながら彼を見た。
「つまり……」
彼は私の方へ向き直る。夕陽を背負った彼の横顔は、彫刻のように完璧だった。
「僕たちは、どうあっても引き合う運命にある。そんな気がするんだ」
これほどの美貌で、そんな台詞を囁くなんて……あまりにも、反則ではないか。
「凛太郎様、あなたの話し方、少し変ですわ……」
私はかろうじて、冷静な声を絞り出した。
彼は私を深く見つめる。その眼差しに、私は訳の分からない胸騒ぎを覚えた。
「いずれ分かる日が来るさ。僕の言っている意味が」
「あなたの仰っていることは、分かりませんわ」
私はくるりと背を向け、彼の視線から逃れるように再び歩き出した。
だが、彼の視線が、まるで私を見透かすかのように熱く、そしてひたむきに注がれているのを背中に感じていた。
§
金曜の夜、神崎家が主催するヨットパーティーが開かれた。婚約者として、私はこの招待を断ることはできなかった。
豪華なヨットの甲板は煌々と照らされ、東京湾の夜景が宝石のように瞬いている。上流社会のエリートたちがシャンパンを片手に、あちこちで優雅な談笑を交わしていた。
私はダークブルーのイブニングドレスをまとい、甲板の縁に立って遠くの夜景を眺めながら、人混みから距離を置いていた。けれど、凛太郎の視線がずっと私を追っていることには気づいていた。
「桐生お嬢様、一曲お相手願えませんか?」
一人の若い男性が私に声をかけてきた。どこかの財閥の御曹司だろう。
私が返事をする間もなく、聞き慣れた声が背後で響いた。
「申し訳ないが、今夜の彼女のダンスパートナーは私だけなんだ」
凛太郎が、いつの間にか私の隣に立っていた。その口調は穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「凛太郎様、あなた……」
何か言おうとしたが、彼はすでに私の手を取っていた。
「あちらで少し話そう」
彼は優しく、しかし抗うことのできない力強さで私の手を引き、ヨットの船首へと連れて行った。
そこは比較的静かで、潮風の音と遠くから聞こえる音楽だけが耳に届く。凛太郎は私の前に立ち、月光が彼の顔に降り注ぎ、その美貌をさらに際立たせていた。
「沙耶香、このところ何か特別なことを思い出したりはしなかったかい?」
彼は不意に尋ねた。その声には、どこか焦るような期待が滲んでいる。
「思い出すって、何をですの?」
私の心臓が、警鐘のように速鐘を打ち始める。
「あなたの仰っている意味が、分かりませんわ」
彼の瞳に、はっきりと失望の色が浮かんだ。
「そうか……まだ、その時じゃないらしいな」
まだ、その時じゃない?
彼は一体何を待っているというの? 私が、何を思い出すと信じているの?
「凛太郎様、今日のあなたは本当におかしいですわ」
私は平静を保とうと必死だった。
「いつからそんなに……そんなに……」
「そんなに、何だい?」
彼は一歩前に踏み出した。私たち二人の距離が、息がかかるほどに縮まる。
「そんなに、あなたらしくないのです!」
私は一歩後ずさり、背中が冷たい手すりにぶつかった。退路はない。
凛太郎は私の反応を見て、苦笑を浮かべた。
「あるいは……これが、本当の僕なのかもしれない」
彼の言葉には、深い諦念と、そして何か途方もない秘密が隠されているように聞こえた。
その時だった。システムの機械的な音声が、私の脳内に直接響き渡った。
『警告! ターゲットの行動が規定シナリオから大幅に逸脱』
私は心の中で絶句した。システムでさえ、凛太郎の行動を異常だと断じたのだ。
『システム、これはどういうこと!?』
私は心の中で叫んだ。
『原因不明のエラーにより、攻略対象者がシナリオから逸脱。現在、高次解析を実行中……解析失敗。宿主は最大級の警戒を推奨します』
解析、失敗? システムですら、この男の異常を解明できないというの?
目の前にいるこの完璧な男が、得体の知れない存在に思えて、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。










