第1章

 激しく突き飛ばされ、私は床に倒れ込んだ。ズキズキと痛むこめかみから、温かい血が伝い落ちていく。

 体勢を立て直す間もなく、書類の束が顔に投げつけられた。

「サインしなさい」母の百合子が冷酷に命じた。

「彰はもう莉子のものよ。その座を明け渡しなさい」

 私は床にへたり込んだまま、無意識に自分のお腹をかばうように抱え込んだ。

 前世の記憶が、濁流のように私を飲み込んでいく。

 炎に包まれたクルーザー。私の夫であり、五大ファミリーのドンである黒崎彰が、異母妹の莉子や私の両親と共に、たった一隻の救命ボートに乗り込むのを、私はただ見つめていた。

「彰! 助けて! 私たちの子どもも!」私は必死にガラスを叩いた。

 誰も振り返らなかった。

 私がまだあの船に残されていることなど、誰一人として覚えていなかったのだ。

 凍てつく海水が船室に流れ込み、私とお腹の中の赤ん坊は、絶望と窒息の中で息絶えた。

 しかし、私は生まれ変わった。結婚と相続権を放棄するサインをした、まさにその日に。そしてそれは、莉子の誕生日でもあった。

 前世では、この子は私と一緒に死んでしまった。でも今世では、誰にもこの子の存在は教えない。それが、私たちが生き残るための唯一の方法だった。

 私はペンを手に取り、自分の名前をサインした。一切の躊躇なく。

 父の宗太郎は動きを止めた。私が泣き叫ぶと予想し、脅しの言葉を用意していたのだろう。

 彼は冷笑した。

「やっと賢くなったようだな。この五年間、お前はただの身代わりに過ぎなかった。莉子が出て行かなければ、お前があの席に座ることなど決してなかったんだ」

 父の言葉の刃は止まらない。

「彰が莉子をどう迎えたか知っているか? 彼女の帰還を祝うために、ロングアイランドにわざわざ新しい屋敷を建て、五十人ものトップクラスの護衛をつけたんだ。それに比べてお前はどうだ? 奴と結婚した時、まともな結婚式すら挙げてもらえなかったじゃないか!」

「できるだけ早く彰のサインをもらってこい。そして、出て行け」

 莉子は母に寄り添うようにして傍らに立っていた。その無邪気を装った瞳には、勝者としての優越感がこれ見よがしに満ちていた。

 愛されている者は常に恐れを知らない。しかし私は、望まれない厄介者として生まれた。

 莉子は父の隠し子だった。彼女の母親は出産時に亡くなり、その罪悪感から、父は彼女に全ての愛情を注いだ。

 父の不貞によって歪んでしまった母は、その憎悪を私へと向けた。

 母の狂った理屈によれば、私に父の心を引き止めるだけの価値があれば、父は決して浮気などしなかったというのだ。私が莉子のように愛嬌がないから、父の愛情を得られなかったのだと。

 だが、そんな暗闇の時代に、彰が現れた。

 誰からも虐げられ、血の繋がった家族から泥水の中に突き落とされていた私に、彰は手を差し伸べてくれた。

 私は彼を救い主だと思っていた。

 彼と結婚すれば、ようやく本当の家族が手に入るのだと信じていた。

 結局のところ、私は一つの地獄から別の地獄へと飛び移っただけだったのだ。

 私はサインした書類をバッグにしまい、部屋を出た。

 寝室に戻り、スーツケースに荷物を詰め始める。

 ドアが押し開けられ、彰が大股で入ってきた。荷物を見ると、彼の目は険しくなった。

「またそれか?」彼は私を見下ろした。

「莉子が帰ってきたばかりだというのに、ヒステリーを起こすのか? 誰を脅そうとしているんだ?」

 私は深呼吸をし、こみ上げる苦い思いを押し殺した。私が口を開くよりも早く、彼の背後からか細い声が聞こえてきた。

「彰……」莉子が彼の袖を引き、頬に涙を伝わせた。

「私が帰ってきたから、結衣ちゃんを怒らせちゃったの? 帰ってくるべきじゃなかったんだわ。私、出ていく……」

 彰の瞳に焦りが浮かんだ。彼は庇うように彼女を腕の中に引き寄せた。そして私を振り返った時、その視線は殺気を帯びていた。

「結衣、失望したよ。いつからそんなに嫉妬深くなったんだ?」彼は吐き捨てるように言い、外にいる護衛たちに顔を向けた。

「彼女を見張っていろ。俺の許可なく一歩も外に出すな!」

 彼は言葉を切り、絶対的な声色で告げた。

「今日は莉子の誕生日パーティーだ。お前も出席しろ。彼女に恥をかかせたら、絶対に許さないからな」

 爪が手のひらに深く食い込んだ。

 五年前、彼は跪き、私の指に銀の指輪をはめてくれた。『一生、お前の面倒を見る』と。

 今、莉子の手を握る彼の瞳には、他の誰が入る余地もなかった。「一生」という言葉は、彼女が帰ってくる日までの期限付きでしかなかったのだ。

 喉が焼け付くように熱かった。私は離婚届を取り出し、ありふれた報告書の下に隠した。

「これは……部下の人たちがさっき届けてきた書類よ。サインが必要みたい」私の声は微かに震えていた。

 彼は眉をひそめた。

「今すぐサインが必要なものとは何だ?」

「ただの定例報告書よ」

 彼は疑わしげな視線を私に向けた。「離婚協議書」の文字を見られれば、私は二度とこの屋敷から生きて出ることはできないだろう。手のひらから冷や汗が滲み出た。

 突然、莉子が彼の腕を揺さぶった。

「彰、学生時代のこと覚えてる? 私の欠席届にはいつもためらわずにサインしてくれたのに……どうして今は一枚の書類にそんなにためらってるの?」

 彰は動きを止めた。その思い出が、冷酷なドンの表情をたちまち和らげた。彼は書類を二度見することなくペンを取り出し、最後のページにサインをした。

 彼は、自分がたった今、私たちの離婚届にサインしたことなど知る由もなかった。

 彼は莉子の手を取り、階下へと向かった。階段の途中で、莉子はわざと声を張り上げた。

「彰、ちょっと厳しすぎたんじゃない? 彼女、五年間もあなたと一緒にいたのよ。少なくとも努力はしてたわ」

 彼の無関心な声が、私の鼓膜を突き刺した。

「あいつが何を犠牲にしようと、それはあいつの勝手だ。お前が帰ってきた以上、あいつは席を空けるべきなんだ」

 血の気が引いた。

 五年前に莉子が去った時、彰は狂乱し、ひどく落ち込んでいた。ギャングの抗争で重傷を負い、治療を拒否した彼。私は彼のベッドの傍らに寄り添い続けた。彼の怒りに耐え、血まみれの包帯を取り替え、悪夢にうなされる彼の手を握り締めていた。

 ついに彼がプロポーズしてくれた時、彼はこう言ったのだ。『お前は莉子とは違う。お前の方が優しい。妻にするのに向いている』と。

 私は本当に愚かだった。それが、完璧な妻としての証明書なのだと本気で信じていたのだから。

 今になってようやく、あの言葉の裏に隠された本当の意味を理解した。

『お前は彼女には及ばないが、彼女がいない間、俺が見つけられる最高の身代わりだ』

 私は最後の一滴の涙を拭い、少し膨らみ始めたお腹を見下ろした。

 血の繋がった家族は私を厄介者扱いし、夫は私を使い捨ての身代わりとしか見ていなかった。

 誰も私を愛してくれないのなら、ここに留まる理由などない。

 パーティーが終わったら、私は姿を消す。

 黒崎彰。今世では、もう二度と会うことはないでしょう。

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