第2章

 彰が私に贈ってくれた唯一のイブニングドレスに身を包み、私は宴会場の片隅で息を潜めていた。

「こんな所で一人、隠れているのか?」

 傍らから、低く落ち着いた声が降ってきた。

 振り返る。藤堂尊――黒崎家と肩を並べる唯一の対抗勢力、藤堂家の首領(ドン)である。

 全身が強張った。

 ここは黒崎のシマだ。敵対する一家のトップである彼が、わざわざこんな片隅にいる私に接触してきた。目的が何であれ、それは私の命取りになりかねない。

 周囲の視線がこちらに集まり始めているというのに、彼はまるで意に介していなかった。

「美しい人だ。ただ、挨拶をしたかっただけだよ」

 ここから離れてほしいと口を開きかけたその時、人だかりの中心から莉子の声が響き渡った。

「結衣!」

「わあ、すごい! 来たばかりなのに、もう藤堂さんに相手をしてもらってるなんて……」莉子は口元を覆い、わざとらしいほど無邪気な声を出した。

「お二人ともすごく楽しそう。もしかして、お邪魔だったかしら?」

 会場中の視線が、片隅にいる私と尊に突き刺さる。

 その目に込められた非難の色は明らかだった。夫の主催するパーティーで、正妻が敵対する組織の首領と密会している――と。

 彰の顔は、今にも雷雨を降らせそうなほど黒く沈み返っていた。

 彼は大股でこちらへ歩み寄ると、私の腕を乱暴に掴んで引きずり起こした。

「結衣、てめえ、一体何の真似だ?」

「彰、違うの、私はただ――」

「黙れ」

 彰は尊へと向き直り、その目に鋭い殺気を走らせた。

「俺の妻に近づくな、尊」

 尊は静かにその視線を受け止めた。

「声をかけたのは私の方だ。女に当たり散らすなど、上に立つ者の振る舞いとは思えないがね」

 彰は尊を睨みつけたまま、手首を振って合図を送った。四人の黒崎家の構成員が即座に前に進み出ると、尊をぐるりと取り囲む。

 尊は私に視線を向け、声を落として言った。

「この家での立ち位置も、楽ではなさそうだな」

 彰が凄む。

「うちの身内のことに首を突っ込むんじゃねえ」

 これ以上事を荒立てたくなかった。私は声を潜め、彰にすがりつくように懇願した。

「お願い、やめて。今日は莉子さんの誕生日でしょう」

 莉子の名前を出せば、少しは頭を冷ましてくれると思ったのだ。

 だが、私を振り返った彼の瞳には、純粋な激怒の炎が燃え盛っていた。私が尊を庇っていると勘違いしたのだ。

「てめえ、こいつを庇う気か?」

「結衣、お前には反吐が出る」

 彰は私の手首を乱暴に振り払うと、かつて彼自身が私に買い与えたドレスの胸元へと手を伸ばした。

 ビリッ――。

 死のように静まり返った宴会場に、布の引き裂かれる音が異様なほど大きく響き渡る。

「お前にこれを着る資格はねえ」

 彼はきびすを返すと、莉子の手を取り、一度も振り返ることなくその場を立ち去った。

 招待客たちの好奇の視線が、無数の針となって私を縫い留める。

 私はその場に呆然と立ち尽くしたまま、本能的に両手でお腹を庇っていた。

 尊が自身のスーツのジャケットを脱ぎ、私の肩にふわりと掛けた。

 厚手の上質な生地が露わになった肌を隠し、同時に周囲のあさましい視線からも私を庇ってくれた。

 その瞬間、下腹部を絞り上げるような激痛が走った。

 くの字に折り曲がる体。一瞬にして背中を冷や汗が伝い、視界の端が急速に暗転していく。

 目を覚ました私は、弾かれたように身を起こし、真っ先にお腹をきつく抱きしめた。

「気がついたか」

 ベッドの傍らの椅子には、尊が腰掛けていた。

「極度のストレスによるショック症状だそうだ。安静にしていなさい」と彼は告げた。

 突然、けたたましい音を立てて病室のドアが蹴り破られた。

 ドア枠に立っていたのは彰だった。両目は血走り、全身からどす黒い殺気を放っている。

 尊がベッドとドアの間に立ち塞がろうとしたが、彰の部下たちが力ずくで彼を脇へ突き飛ばした。

「結衣……」彰が私へと歩み寄ってくる。地獄の底から這い出たような、恐ろしく低い声だった。

「てめえ、こんな所で何してやがる?」

「倒れてしまって。藤堂さんが運んでくれて――」

「倒れただと?」彼は冷たい笑い声を漏らした。

「都合のいい話だな。俺の部下たちが爆撃されたばかりだ。莉子は死にかけた。それなのにお前は、よりにもよって敵対する組織の首領(ドン)の腕の中に倒れ込んだってわけか」

 彼の背後から、私の両親が病室に入ってきた。

「お前の仕業だな!」父である宗太郎が、憎悪に顔を歪めて怒鳴りつけた。

「実の姉を殺させるために、藤堂の連中に輸送ルートを漏らしたんだろう!」

「莉子は木っ端微塵にされるところだったのよ!」百合子が金切り声を上げた。

 私は必死に身を起こそうとした。

「私、何も漏らしてなんかいません」

 尊が割って入った。

「結衣は私と一緒にいた。彼女は倒れてからずっと意識を失っていたんだ。情報を漏らすことなど不可能だ」

「証拠がどうとか御託を並べるな!」彰が吠えた。彼は前へ飛び出すと、尊の胸ぐらを掴み上げた。

「てめえ、こいつの周りをうろつきやがって。この襲撃も、二人で示し合わせたことなんじゃねえのか」

 莉子は彼らの後ろに立ち、涙ぐんでいた。

「結衣を責めないで……私、ただすごく怖くて……」

 彰が莉子を振り返ると、その目に宿っていた殺気は一瞬にして痛ましげな色へと溶け落ちた。

 そして、私へと向き直る。

「結衣。お前は組織を裏切った。俺を裏切ったんだ」

「死んで当然だ」

 尊が冷ややかに言った。

「証拠もなく妻を責めるべきではないな」

 彰は尊から手を離し、一歩後ずさった。

 突然、彼は銃を抜いた。

 銃弾は尊の頬を掠め、背後の壁に深くめり込んだ。

 尊は微動だにしなかった。彼の頬には無残な裂傷が走り、顎のラインを伝ってどす黒い血が滴り落ちる。

 だが、その瞳は完全に氷のように冷え切っていた。

「これは警告だ」彰は武器をホルスターに収めながら言った。

「次は外さねえぞ」

 彼は部下たちを振り返った。

「こいつを連れて行け」

 私は車に押し込まれた。

 彼らは私を黒崎家の地下水牢へと引きずり下ろした。そこには一切の光がなく、足首まで浸かるほどの氷のように冷たい淀んだ水があるだけだった。

 私は隅にうずくまり、お腹を両腕でしっかりと抱きしめた。

『赤ちゃん、どうか持ちこたえて』

 外の石造りの廊下から、莉子の声が聞こえてきた。

「私、あの車に乗るべきじゃなかったのよ」彼女はすすり泣いた。

「全部私のせいだわ……」

「やめろ」彰の声は、胸を締め付けられるほど優しかった。私に対してそんな声を出したことなど一度もなかった。

「俺がお前を守れなかったんだ。お前が戻ってくると分かっていれば、あいつと結婚なんか絶対にしなかった。あいつはただの身代わりだ」

 その瞬間、私の心は粉々に砕け散った。

 彼が最初に愛したのが莉子だということは、ずっと前から知っていた。

 何年も前、莉子はその暴力的で血に塗れた世界を鼻で笑い、より洗練された男を追いかけて、彼を冷酷に置き去りにしたのだ。

 この五年間、私はこの結婚に全身全霊を注いできた。私の絶対的な献身がようやく彰の心を溶かし、ついに私を愛してくれるようになったのだと、愚かにも信じていた。

 しかし、この五年間の優しい触れ合いも、真夜中の囁きも――そのどれ一つとして、私に向けられたものではなかったのだ。

 私はただの、哀れな代用品にすぎなかった。

 翌日、私は水牢から引きずり出された。

 ベッドの上にうずくまり、お腹をきつく抱え込む。

 スマートフォンの画面が明るく光った。

 尊からのメッセージだった。

「無事か?」

「私のせいで誤解を招くような事態に巻き込んでしまい、すまなかった」

「助けが必要なら言ってくれ」

 私は画面を見つめた。

 指がキーボードの上をさまよう。

 そして、ついに入力した。

「ここから逃げたいです」

「助けてください」

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