第4章
「黒崎彰、あなたは結城莉子を妻として迎えますか?」
彰は祭壇の前に立ち、指輪を握りしめたまま、何も答えなかった。
「彰?」莉子が小声で呼びかけた。
彼はハッと我に返った。
「誓います」と彼は口にした。
だが、その言葉を口にした瞬間、脳裏をよぎったのは――
自分が引き裂いたドレスを身に纏い、宴の片隅で誰からも見向きもされずに立っていた結衣の姿。
地下牢の淀んだ冷水の中で身を縮め、寒さで唇を紫に腫らしていた結衣。
彼が乱暴に扉を閉めたとき、枠に挟まれた彼女の指が砕ける、あの胸の悪くなるような鈍い音。
思えば、結衣が自分に嫁いできたとき、まともな結婚式すら挙げてやらなかった。それなのに、莉子が望めば、たった二日でこの式をでっち上げた。こんなことが、果たして許されるのか?
指輪を握る手に、ぎゅっと力がこもる。
その時、遠くから地響きのような爆発音が轟いた。
彰は勢いよく顔を上げた。
黒崎本邸の方向から、天を衝くような火柱が立ち上っていた。
何キロも離れているはずのこの場所まで爆風の衝撃が伝わり、足元の地面が微かに揺れる。参列者たちの間から、ざわめきと悲鳴が上がった。
彰の指から滑り落ちた指輪が、床に落ちて乾いた音を立てた。
「結衣……!」彼は祭壇から飛び降りると、人混みを乱暴に掻き分け、車に向かって猛然と駆け出した。
莉子の表情が凍りつく。
「彰、どこへ行くの――」
「彰!」莉子はウェディングドレスの裾をたくし上げ、彼を追いかけた。
「式はまだ終わってないわ! 行かないで!」
「どけ」
「約束したじゃない!」彼女は彰の腕にすがりついた。
「今日、私と結婚してくれるって! そう言ったのに――」
「離せ」彰の両目は血走り、遠くの空に立ち込める黒煙だけを穴のあくほど見つめていた。
「絶対にあいつよ! 結衣の仕業に決まってるわ!」莉子は彼の袖をきつく握りしめた。
「私たちに復讐しようとしてるのよ! わざと私の結婚式をぶち壊したんだわ! 彰、あんな性悪女のために私を捨てる気!?」
途端に、周囲の参列者たちからヒソヒソと囁き合う声が漏れ始めた。
「彰、約束したじゃない……」莉子は顔を仰向け、頬に貼られたガーゼを指差しながらヒステリックに泣き叫んだ。
「顔をこんなにされて、今日こそ完璧な落とし前をつけてくれるって言ったじゃない! なのに今ここで行ってしまったら、私の立場はどうなるのよ!?」
普段であれば、そのガーゼと涙を見るだけで、彰は彼女の言う通りにしていただろう。
だが今は違った。雲まで届かんとする炎を前に、魂をも凍らせるようなかつてない恐怖が、彼の喉元を締め付けていた。
彼はすがりつく莉子の手を乱暴に振り払った。
手加減など一切ない力に、莉子はよろめき、あわや地面に倒れ込みそうになる。
「彰!」
彼は一度も振り返らなかった。
エンジンが轟音を立てる。タイヤがアスファルトに黒々としたスリップ痕を焼き付け、車は猛スピードで式場のゲートを突き破るように走り去った。
護衛の車列がすぐさまその後を追う。
無線機から部下の切羽詰まった声がノイズ混じりに響いた。
「ボス、本邸が爆破されました。現在、消火活動に当たって――」
「あいつはどこだ!」彰はハンドルに拳を叩きつけた。
「結衣はどこにいる!?」
無線が二秒ほど沈黙した。
「何者かに連れ去られるのを見た者がいます」
連れ去られた。
結衣が死んだわけではないと知り、一瞬だけ安堵が胸をよぎったが、直後に爆発的な怒りが沸き上がった。彼は怒鳴りつけるように指示を飛ばした。港と空港を即時封鎖し、すべての防犯カメラの映像を洗い出し、ヘリの飛行ルートを徹底的に追跡しろ、と。
ハンドルから手を離して初めて、自分の指が小刻みに震えていることに気がついた。
彰は、莉子がまだ自分を待っているであろうことを思い出した。まずは彼女にはっきりと伝えておく必要があった。結婚式は一旦白紙に戻し、結衣を見つけ出した後に改めて清算する、と。
彰は莉子の控え室へと戻ったが、そこに彼女の姿はなかった。
廊下の奥から、話し声が漏れ聞こえてくる。
莉子の声だった。
「当然でしょ、自分で切ったのよ」
「彰が私のことを疑うとでも思った?」
彰は立ち尽くした。
「あいつ、見事に騙されてたわ」莉子は嘲るように笑った。
「本っ当に馬鹿なんだから。昔から何一つ変わってない」
壁の角にかけた彰の指が、ギリッと食い込む。
「昔私があいつを捨てたのは、金も力もない、ただのチンピラだったからよ」莉子の声には、あからさまな軽蔑が滲んでいた。
「いつ道端で野垂れ死ぬかもわからないような男と、誰が好き好んで結婚なんてするもんですか」
「でも今は組織のドン。なら話は別でしょ」
「結衣に追い出されたっていう私の嘘も、あいつ本気で信じ込んでるのよ。ほんと、傑作だわ」
「私の言うことなら、何一つ疑わないんだから」
彰の足元で、現実という名の基盤が音を立てて崩れ去った。
これまで抱き続けてきた憎悪の根源。莉子が戻ってきて以来、妻に対して振るってきた数々の残酷な仕打ち――その大義名分が、木っ端微塵に砕け散っていく。
結衣は、莉子を追い出してなどいなかった。嘘などついていなかった。莉子の顔を傷つけてもいなかった。
身に覚えのない罪で拷問に耐え、あの冷たい水牢を生き延びたのだ。
それなのに自分は、分厚い木扉で彼女の手を挟み、その指を無惨に砕いてしまった。
彰はふらふらと一歩後ずさった。突然、足元の床がぐらりと傾き迫り上がってくるような錯覚に陥る。空虚で、狂おしいほどの耳鳴りが、彼の鼓膜を鋭く突き刺していた。
