第1章 抱き違えられた偽令嬢

パァン!

鳳咲夜は手を引いた。

江崎拓海の頬に浮かんだ真っ赤な手形――それは、この訂婚パーティーに彼女が贈った、いちばん派手な祝儀だった。

「……俺を殴ったのか?」

江崎拓海は頬を押さえ、信じられないという目で見返してくる。

鳳咲夜は冷えた視線を向けた。

「須藤梨々花と婚約したばかりで、更衣室まで追いかけてきて私を塞ぐ。そのうえ浮気相手になれですって? よくそんな口が利けるわね。この一発は、あなたたちへの新婚祝いよ」

江崎拓海の顔がかっと赤くなる。歯を食いしばり、吐き捨てた。

「鳳咲夜、調子に乗るな。情人にしてやるのは俺が可哀想に思ってやってんだ。お前、まだ自分が須藤家のお嬢様だと思ってるのか?」

鳳咲夜は、可笑しくて仕方がなかった。

須藤家のお嬢様? そんな肩書き、最初から本気で大事にした覚えなどない。

一週間前、慈善団体の人間が須藤家を訪れた。「孤児院の子が、あなた方の実の娘である可能性が高い」と。須藤夫妻が親子鑑定を受け、鳳咲夜が実子ではないと判明した。

それで彼女は須藤姓を捨て、鳳姓になった。実の両親は、ひどく辺鄙で貧しい土地で暮らしているらしい。

真実が明るみに出るや否や、須藤梨々花は迎え入れられ、三年間も鳳咲夜を追い回していた“婚約者”の江崎拓海は、戻ってきたばかりの梨々花とあっさり婚約した。

居場所を取り違えた“偽物の娘”など、追い出されて当然。

訂婚パーティーも終わり、迎えの車も向かっている。鳳咲夜は、そろそろここを去る時間だった。

――にもかかわらず。

江崎拓海はいつまでも、彼女の前に立ちはだかる。

鳳咲夜の顔を見つめる瞳に、未練がべっとり滲んでいた。

鳳咲夜は須藤梨々花よりずっと美しい。梨々花が戻る前、彼は三年も鳳咲夜を追った。婚約があっても鳳咲夜は一度も笑顔など向けなかったが――今や“お嬢様”の価値は消えた。だが、愛人なら……。

「鳳咲夜、ちゃんと考えろ」

江崎拓海は急に声色を柔らかくした。

「須藤家は蒼海県で五十位以内の富豪だ。お前はお嬢様として暮らしてきたんだろ? 田舎に戻ったら絶対耐えられない。俺がマンションを用意してやる。だから――」

「どいて」

鳳咲夜は冷笑して遮った。

無駄口を叩く気もない。そもそも婚約がなければ、江崎拓海ごときが自分の目の前に立てるはずもない。

それでも江崎拓海は諦めず、いきなり彼女の手首を掴み、抱き寄せようとする。

そのとき、廊下の角から弾んだ声が響いた。

「鳳咲夜! 私のダイヤの指輪見て――」

須藤梨々花がドレスの裾を持ち上げ、小走りで駆けてくる。得意げに指輪を見せつけるつもりだったのだろう。だが、江崎拓海が鳳咲夜の手首を掴んでいる光景を目にした瞬間――

「きゃっ……! な、何してるの!?」

江崎拓海は反応が早かった。さっと一歩退き、胸を痛めた顔で鳳咲夜を指さす。

「梨々花……! こいつが俺を誘惑したんだ!」

「俺は通りかかっただけなのに、急に手を掴んできて……」

大げさにため息を吐き、責めるように言う。

「鳳咲夜、どうしてこんなことするんだよ……」

「鳳咲夜、恥知らず!」

須藤梨々花は一瞬で沸騰し、手を振り上げて鳳咲夜の頬へ叩きつけようとした。

鳳咲夜はその手首を掴み、前へ押し返す。

よろめいた梨々花は数歩後退し、転びそうになって目を赤くした。

「これ、パパに言いつける!」

須藤梨々花はきつく睨みつける。

「パパ、あんたが出ていく前に生活費として数十万渡すって言ってたのよ! でもこんなことしたって知ったら、まだあんたに優しくしてくれると思う?」

「まあまあ。彼女も一時の迷いだよ」

江崎拓海がわざとらしく嘆いた。

「もうすぐ田舎へ戻るんだ。あんな貧しいところに行くと思えば、絶望しても仕方ないだろ?」

「はっ。貧乏暮らしなんて自業自得よ!」

須藤梨々花は止まらない。

「泥棒猫! 男をたぶらかすビッチ!」

鳳咲夜は本来、さっさと出ていくつもりだった。だが、さすがに限界だった。

振り返り、須藤梨々花に尋ねる。

「自己紹介? ひどい顔ね。須藤家のお嬢様らしさが欠片もない。外の人がそんな言葉遣いを聞いたら、須藤家の面子は終わりよ」

言い放つと、鳳咲夜は少し顎を上げた。

黒いワンピースは簡素だが、背はすらりと高く、肌は雪みたいに白い。白鳥の首筋から背にかけて一直線に伸びたラインが、彼女を今なお“本物の金持ちの娘”に見せる。

「……っ!」

須藤梨々花は震えた。

「それでもあんたは男を誘惑するビッチでしょ!」

「へえ?」

鳳咲夜は意味深に江崎拓海を一瞥する。

「私が、誘惑したの?」

「認めたほうが身のためだ」

江崎拓海は声を落とし、脅すように睨みつけた。

――こいつにはもう後ろ盾がない。何を言っても誰も信じない。

だが次の瞬間。

鳳咲夜はスマホを取り出し、再生ボタンを押した。

江崎拓海が気持ち悪い口説き文句を吐き始めたあたりから、彼女は密かに録音していた。彼の性格を知っている。案の定、役に立った。

スピーカーから流れる江崎拓海の声は、はっきりと傲慢で下品だった。

鳳咲夜が一言も足さないうちに、二人の顔色が変わる。

江崎拓海は一瞬で青ざめ、慌てて手を振った。

「梨々花、違う! 違うんだ、これは……こいつがわざと録って俺を陥れたんだ! 信じるな――」

「江崎拓海――ッ!!」

須藤梨々花はほとんど発狂し、彼の名を叫んで顔を引っかいた。

更衣室は瞬く間に揉み合いになり、騒ぎは大きすぎて、近くの客までこちらを覗き込み、ひそひそと囁き始めた。

鳳咲夜は見世物に興味もなく、背を向けてホテルを出た。

ホテル前では、須藤伸治と須藤律子が客を見送っていた。鳳咲夜が出てくると、二人とも表情がわずかに揺れた。

「咲夜……」

須藤伸治が近づき、静かに息を吐く。

「私たちは実の娘と暮らしたい。お前のご両親だって、実の娘と暮らしたいはずだ。だから急いで帰らせようと……」

瞳に、取り繕った誠意を浮かべる。

「いつでも戻りたくなったら戻っておいで。田舎で苦労する必要はない」

そう言って、用意していた封筒を取り出した。

「このお金は――」

「渡さないで!」

須藤律子が突然手を伸ばし、封筒をひったくった。

「そんな大金、田舎で強盗にでも遭ったらどうするの? それに、あの貧乏一家を連れてうちにたかりに来たら追い払えないじゃない!」

周囲の客は、鳳咲夜へ侮蔑の視線を向けはじめる。

須藤律子は封筒をしまい、鳳咲夜を睨んで言った。

「いい? うちはあなたに借りなんかない。これからは――」

「これからは、あなたたちに連絡しません」

鳳咲夜は遮り、声を張った。

静かなのに、妙に通る声。周囲の誰の耳にも、はっきり届く。

「須藤さん、ご安心ください」

足を止めて見物している顔ぶれを一瞥し、口元にごく薄い弧を描く。

「私が須藤氏で働いた間に、グループの中核案件を三件まとめた。その利益で、これまでの養育費は十分返したわ。今日から、私たちはチャラ」

一拍置いて、須藤律子の顔色が変わるのを見据えたまま、続ける。

「それと――あなたの実の娘さんが、この家業を守れるといいわね。私がいなくなって、蒼天キャピタルから投資を引っ張ってこられる人が、まだいるかしら。須藤家が蒼海県の富豪トップ五十に居座り続けられるかも、怪しい」

言い終えると、彼女はスマホの画面をさっと見せた。

蒼天キャピタルとのやり取り。重要な節目の連絡が、くっきり残っている。

須藤伸治は顔面蒼白になり、唇を震わせた。

「咲夜……あの三件の、今後の――」

須藤律子は怒りで全身を震わせ、背中に向かって甲高く叫ぶ。

「脅してるつもり!? あんたがいなくても須藤家は回る! 自分を何様だと思って――!」

だが周囲の客の意味深な視線が、針のように二人へ刺さっていく。

そのとき。

鳳咲夜を迎えに来る車が、ようやく到着した。

ボディには泥が厚くこびりつき、元の色もわからない。フロントバンパーは半分外れ、トランクの蓋に至っては跡形もない。

須藤律子はたちまち得意げになり、鼻で笑った。

「こんなボロ車、街を出る前に壊れるわよ! 五分もしないうちに後悔するわ!」

次の瞬間、ドアが開き、車内から太い男の声が響いた。

「咲夜、迎えに来たぞ! 帰ろう!」

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