第2章 やはりお前は疫病神だ

「俺の娘!」

車から降りてきた男は背が高く、スーツ姿。彫りの深い顔立ちに鋭い眉眼――鳳咲夜とどこか似ていた。

なのに、身につけている服はこの車と同じくらい散々だ。生地は皺だらけで、ズボンの裾には大きな泥がべったり付いている。

けれど鳳咲夜はまるで気にしなかった。澄んだ声で呼ぶ。

「……お父さん」

見た瞬間、胸の奥に今までにない親しさが湧いた。男が笑う目の中に、嘘のない情が満ちているのが見えたからだ。

あれが本当に、愛している人の目――そう思った。

須藤家の夫婦は二十年、彼女を実の娘のように扱ってきた。けれど、彼女を見る視線の奥には、骨の髄から愛が欠けている冷たさがあった。

車の横で、鳳宗一郎は腕を広げかけて――すぐ下ろした。

焦って駆けつける途中で事故に遭い、こんなみっともない姿になった。鳳咲夜の黒いワンピースは綺麗だ。泥だらけの自分が抱きしめるのは……。

そう思った矢先、鳳咲夜が一歩踏み出し、迷いなく抱きついてきた。

背後で見ていた須藤家の夫婦の胸が、ちくりと痛む。

「行こう」

鳳咲夜は汚い車も、スカートに付いた埃も気にせず、鳳宗一郎について車へ乗り込んだ。

車が走り出すと、鳳宗一郎が申し訳なさそうに言う。

「本当にすまん。父親として恥をかかせた。道中で土石流に遭ってな……車が一度埋まった。ようやく抜け出して、この有様だ」

「恥なんかじゃない。皆さん、大変だったんでしょう」

まだ慣れないはずなのに、胸がじんと揺れた。昨日ようやく連絡がついたばかりなのに、今日にはもう、遠い距離を越えて迎えに来ている。急げば土石流に遭うことだってある。

ただ――鳳咲夜は車内をさりげなく見回した。

土石流から抜け出せたなら、エンジンも車体も相当頑丈なはず。普通の車ではない。

ふと、ハンドル下に見覚えのあるエンブレムが目に入る。どこかのグループのロゴみたいな――。

「運転手の松本だ。松本さんと呼べ」

鳳宗一郎の声は、興奮のせいか少し震えていた。

鳳咲夜が横顔を見た瞬間、紫がかった唇に気づく。

「……お父さ――」

言いかけたところで、鳳宗一郎が胸を押さえ、言葉を失った。

「停めて!」

一目で分かった。発作だ。

「ニトログリセリンは? 松本さん、早く!」

松本は真っ青になった。

「急いで出たので持っていません! 宗一郎様は先月手術したばかりで、普通なら……」

鳳咲夜は何も言わず、路肩に停めさせ、座席を倒す。

頭部を少し高くし、気道を塞がないよう顔を横に向ける。腰を落として耳を胸へ、心音を拾った。

「救急車を呼びます!」

松本が慌ててスマホを出す。だが高速道路だ。到着まで時間がかかる。

「心室細動で横隔膜が痙攣してる。呼吸ができてない」

鳳咲夜は淡々と告げた。

「救急隊には、挿管型の人工呼吸器を準備させて」

「は、はい……!」

松本は言われた通り伝え、遅れて恐怖に襲われる。

「呼吸できないって……すぐ危ないってことですよね!? 人工呼吸を――」

「無理」

鳳咲夜は即断し、周囲を見回した。

「刃物はある?」

松本が車載冷蔵庫から果物ナイフを取り出す。

もう他に手はない。

鳳咲夜は鳳宗一郎のシャツのボタンを外し、頭を後屈させる。喉仏の少し下の膨らみに指を当て、刃先を軽く刺し、くるりと回した。

血が滲み、松本は身体が凍りついたように動けない。顔を背け、視線の端でだけ見守る。

次いで鳳咲夜は、鳳宗一郎の胸ポケットから万年筆を取り出す。手早く分解し、ペン軸を切開部へ差し込んだ。

途端、血混じりの分泌物が流れ、鳳宗一郎の胸が上下し、切開した気管から長く息を吐いた。

「ガーゼ」

鳳咲夜が手を出す。

松本は我に返り、医療バッグを探り当てた。止血はすぐ終わり、鳳咲夜は軽く胸郭を圧しながら呼吸を整える。

鳳宗一郎の顔色が戻った。まだ青白いが、息は通っている。

松本は背中が汗でびっしょりなのに気づき、全身が震えた。

一方の鳳咲夜は、医療バッグのウェットシートで手の血を拭い、凪いだ表情のままだ。

この一連の手際、冷えたまでの沈着――。

本当に須藤家のような小さな家で二十年過ごした娘なのか。場数を踏んだ頂点の専門家、その佇まいだった。

「さ、さっきのは……気管切開の救急処置ですか?」

松本が震える声で訊く。

「そう」

鳳咲夜は頷いた。

「無菌じゃないから感染リスクがある。病院でまず抗菌薬。それと果物ナイフだから創も荒いし、傷跡は残る」

松本は呆然として言葉を失った。

迎えに来る前は、須藤家で育った彼女の心情に配慮し、卑屈にさせないように――などと話していた。

卑屈?

彼女は鳳宗一郎の命の恩人だ。兄たちは土下座して礼を言うべきだろう。

ほどなく鳳宗一郎は病院へ搬送された。

鳳咲夜は簡潔に病状を医師へ伝える。車内で高難度の処置をしたと聞き、医師ですら目を見開いた。

「……どちらの医大をご卒業で? お若いのに……」

鳳咲夜は首を振る。

「医大は出てません。子どもの頃、田舎で引退した先生から応急処置を少し」

そのとき、甲高い女の声が近づいてきた。

「叔父さま! 叔父さまはどこ!?」

派手な装いの女が、7cmはありそうなピンクのヒールを鳴らして小走りで来る。鳳咲夜を見るなり息を呑み、胸を押さえて目を見開いた。

「あなたね! 叔父さまが新しく認めた娘って! 私、タロットで出たのよ。不吉だって! ほら見なさい、あなたが現れた途端、叔父さまがこうなったじゃない!」

鳳咲夜は目を細めた。

「……誰?」

「鳳沙耶。あなたの従姉よ!」

女は背筋を伸ばし、鼻で見下ろすように言い放つ。頭を下げて挨拶されるのを待つ顔。

だが鳳咲夜は「ああ」とだけ返し、医師との話へ戻った。

「躾がなってない! やっぱり辺鄙な田舎育ちは!」

鳳沙耶が甲高く罵る。

「辺鄙な田舎?」

鳳咲夜は面白くなった。

須藤家は彼女が「貧しい場所へ行く」と言い、鳳家は彼女が「貧しい場所から来た」と言う。

「うちの帝星グループと比べたら、どこから来たって辺鄙な田舎よ!」

鳳沙耶が白目を剥く。

その名を聞いた途端、医師の表情が変わり、反射的に少し身を屈めた――ただし相手は鳳咲夜だった。

世界に網を張り、軍需も医薬も手がける巨大財閥。帝星グループが、まさか自分の家だなんて。

けれど鳳咲夜は、須藤家にも期待しなかったし、鳳家にも寄りかかる気はない。金がいくらあろうと、自分のものではない。

鳳咲夜が無反応なのが気に入らないのか、鳳沙耶が鼻で笑う。

「土臭い子。知らないんでしょ?」

そして医師へきつく言い放つ。

「あなた、なんでその子にペコペコしてるの? あの子が来なければ叔父さまは入院しなかったのよ!」

さらに鳳咲夜へ命令口調。

「ねえ。私があなたなら、今すぐ消えるわ」

鳳咲夜は静かに見返した。

「私があなたなら、性行為の相手に感染症がないか調べるけど」

「……は?」

鳳沙耶は完全に虚を突かれ、固まった。

前のチャプター
次のチャプター