第3章 婚約破棄しに来た

「首、太くなりすぎじゃない? 明らかにリンパ節が腫れてる。しかも首の横に軽い発疹まである。でもその声、喉の痛みはなさそうね。となると免疫系のトラブルで、ただの咽頭炎じゃない。初期の性感染症で見かける所見に近いわ」

「な、何言ってんのよ! デタラメ! 呪ってるの!?」

鳳沙耶は怒りに顔を歪め、手を振り上げて鳳咲夜を叩こうとした。だが医師が素早く割って入り、その腕を止める。

「鳳沙耶さん。彼女の指摘は筋が通っています」

医師は落ち着いた声で言った。

「先ほど運び込まれた患者さんも、応急処置をしたのは鳳咲夜さんです。医学的な知識と判断は確かですよ。念のため、下の感染症科で検査を受けてください」

「……は?」

鳳沙耶の脳裏に、これまでの男たちの顔が次々とよぎったのだろう。瞳の奥に怯えが滲み、自信が音を立てて崩れていく。

「覚えてなさいよ!」

吐き捨てるように言い残し、踵を返すと逃げるみたいに駆け去った。

その直後。救急処置室の扉が開き、鳳宗一郎がストレッチャーで押し出されてきた。

意識は戻っている。弱々しく鳳咲夜を見て、かすかに笑う。

「症状はひとまず安定しました。ただ、入院して経過観察が必要です」

医師が言い終える前に、鳳宗一郎が掠れ声で割り込んだ。

「帰る……咲夜を、家に連れて帰る……」

「だめ」

鳳咲夜は即答した。

「家はいつでも帰れる。治療が先」

だが医師は、意外にも微笑んだ。

「問題ありません。ロイヤル・クレスト・エステートには専属の病院があります。市内でも最上級の医療拠点ですから、鳳宗一郎さんは戻られたほうが、むしろ確実な治療を受けられます」

ロイヤル・クレスト・エステート。政界も財界も大物が集まる、金があっても住めるとは限らない豪奢な邸宅群。

鳳家が帝星グループを擁しているのなら、そこに住んでいても不思議はない。医療面も、帝星グループが世界屈指のメディカル・ラボラトリーを抱えている以上、心配は無用だろう。

ほどなく松本がヘリを手配した。

鳳咲夜は鳳宗一郎を支えながら機内へ乗り込み、固定ベルトを自分の手で確かめ、担架をきっちりと留める。

その手際の良さに、鳳宗一郎は目尻を赤くした。五人の手のかかる息子に振り回され続けた半生だ。娘がいるだけで、こんなにも違うのか。

松本も同じように目を見張る。教えてもいないのに、担架の固定を迷いなくこなす。しかも動きが妙に慣れている。まるで、日常的にヘリへ乗っているみたいに。

――だが調べた限り、須藤家にそんな力はないはずだ。

準備が整うと、鳳宗一郎が松本へ目配せした。

松本はすぐ察し、低く報告する。

「屋敷には連絡済みです。旦那様が小小姐をお連れになって戻られると。ただ、屋敷にいるのは一輝様だけでして」

そう言いかけたところで、松本のスマホが短く震えた。画面を見た瞬間、彼の表情がこわばる。

「……宝生さんも来られるそうです」

松本は鳳咲夜の顔色を窺いながら、慎重に続けた。

「宝生さんは……小小姐の婚約者でございます。お帰りの件も、向こうに伝わっていて……」

「……は?」

鳳咲夜はさすがに驚き、眉がきゅっと寄った。

須藤家でも、勝手に婚約者を当てがわれた。鳳家に来ても同じ?

本気で押しつけるつもりなら、門をくぐる前に引き返す。今すぐ去る――そう思った瞬間。

担架の上の鳳宗一郎が、必死に手を振った。

途切れ途切れに、ひと息ごとに言葉を絞り出す。

「咲夜……嫌なら……結婚しなくていい……!」

鳳咲夜はふっと笑った。

「うん。わかった」

須藤家は「嫌でも我慢しろ」と言った。

鳳家は「嫌ならやめろ」と言う。比べるまでもない。彼らのほうが、家族だ。

やがてヘリはエステートの上空へ入り、ヘリポートへ降りた。

床はただのコンクリではない。艶を抑えた玄武岩。その中心に、帝星グループのエンブレムが嵌め込まれている。

陽光が段状の芝生を緑の絨毯みたいに照らし、その向こうには淡い金色を帯びた城館。優雅で、時間の重みを纏う景観だった。

鳳咲夜は淡々と視線を走らせ、待機していた男へ目を向ける。

背が高く、白いスーツが眩しい。鳳宗一郎に似た、厳格で圧のある顔つき。だが温かい笑みはなく、値踏みするような眼差しが刺さった。

「鳳咲夜、はじめまして。鳳一輝だ。君の兄になる」

「母と他の兄たちはまだ戻っていない。代表して歓迎する」

「父を救ってくれたそうだ。感謝する」

礼は礼でも、声は硬い。どこか中世の騎士みたいに生真面目で冷たい。

鳳咲夜は軽く頷き、さらに淡泊に返す。

「当然のことをしただけ」

医療スタッフが鳳宗一郎をエステート内の病院へ運んでいく。

鳳一輝は鳳咲夜を芝生の小道へ導き、そのまま城館の正面玄関へ向かった。

ドーム型のメインホールは三十メートル近い吹き抜け。床は鏡のような白大理石で、巨大なシャンデリアと、そこに散りばめられた数百のダイヤの光を映し返す。

鳳一輝は彼女の反応を観察した。

鳳咲夜は眩しさに目を細め――そして、ほんのわずかに嫌そうな顔をした。

鳳一輝は咳払いを一つ。

「須藤家から来たそうだな。十分な教育は受けられなかっただろう。今後は何がしたい?」

「大学が難しいなら、高校課程から補習でもいい。結婚したいなら、それも――」

眉を寄せる。

「鳳家の子どもは皆優秀だ。君を見下したりしない。自卑は不要だ」

松本は横で何度も口を開きかけ、結局飲み込んだ。

鳳咲夜は眉をわずかに上げ、胸の奥に小さな失望を落とした。帝星グループの次期継承者として名高い鳳一輝が、初対面からこの程度の先入観。浅い。

鳳沙耶の様子を見ても、他も似たようなものかもしれない。

その冷えた感情は一瞬で消したつもりだった。だが鳳一輝は敏感に捉え、足を止めて目を細めた。

「何か言いたいことがあるか? 間違っているなら指摘してくれ」

その姿勢だけは意外だった。

鳳咲夜が口を開く前に、白いシャツに白手袋の中年執事が小走りでやって来た。

深く頭を下げ、慌てた声で告げる。

「一輝様。宝生さんが人をお寄こしになりました」

「それが君の婚約者だ」

鳳一輝は鳳咲夜へ言い、執事へ不満げに向き直る。

「本人が来ると言ったはずだ。使いだけなら、鳳咲夜は会わない」

執事の顔が引きつった。

「それが……咲夜様にお目通りするためではなく……婚約破棄のためでございます」

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