第4章 あなたはこの患者のために全責任を負えますか
鳳咲夜はそれを聞いても、眉ひとつ動かさなかった。
「いいわ。相手から言い出したなら、手間が省ける」
執事は露骨に固まった。
婚約破棄など、どの名門にとっても面子を傷つける一大事だ。まして鳳家ほどの家格となれば、なおさらである。
それを、ようやく戻ってきたばかりの小小姐が、泣きも騒ぎもしない。
――この胆の据わり方。並の人間には真似できない。
鳳一輝も一瞬、目を見開いた。鳳咲夜を見つめる視線に、わずかな賞賛が滲む。
「宝生家の連中は?」
「お、応接室でお待ちしております……信物と、当時の婚約文書を、直接返却したいと……」執事が慎重に答える。
「物だけ置いて帰らせろ」鳳一輝の声音は冷えたままだ。
「鳳家の娘を、向こうが選り好みする筋合いはない。伝えろ。この婚約が終わるのは――鳳家が『宝生家の御曹司では妹に釣り合わない』と判断したからだ、と。余計な口を利くなともな」
執事は背筋を伸ばし、勢いよく頭を下げた。
「承知しました、一輝様!」
執事が足早に去ると、鳳一輝は改めて鳳咲夜へ向き直り、さっきより幾分柔らかな声で言った。
「気にするな。父さんも俺も母さんも、お前の結婚で利益の取引なんてしない。どんな相手を選ぶかは、お前が決めればいい。鳳家は、いつでもお前の後ろ盾だ」
はっきりした言葉だった。彼女の背中を、鳳家として支えるという宣言。
鳳咲夜は目を上げ、鳳一輝の眼差しを正面から受け止める。胸の奥に残っていた、彼への冷えた印象が、すっと薄まった。
「わかった。ありがとう、兄さん」
鳳一輝はわずかに口元を緩めた。
「まずは休め。話はそれからだ」
鳳咲夜は鳳一輝に続いて内側へ向かう。
だが扉に差しかかったところで、ポケットのスマホがぶるりと震えた。
画面に出たのは、神崎蒼の教え子の名。
神崎蒼は、国際医学研究会で知り合った若い医師だ。ロイヤル・メディカル・インスティテュート帰りの博士で、気が合い、難症例をよく語り合った仲でもある。
その縁で彼の弟子、瀬戸先生とも繋がった。
瀬戸先生は普段、用件はメッセージで済ませるタイプだ。電話となれば、よほどのこと。
鳳咲夜は鳳一輝に一礼する。
「ごめん。電話に出る」
そう言うと脇へ移動し、すぐ通話を取った。
「瀬戸先生?」
『リサさん!』
受話口から飛び込んできたのは、若い男の切迫した声だった。
『こちらで、稀な病気の急性増悪らしい高齢女性を受け入れました。肺動脈性肺高血圧のクリーゼに、多臓器不全みたいな所見も重なっていて……原因が掴めません。去年、リサさんが『メディカル・フロンティア』で触れていた、未公開の難症例にすごく似てるんです!』
鳳咲夜の頭が、瞬時に臨床モードへ切り替わる。情報が高速で整理されていく。
「遺伝性出血性毛細血管拡張症で、潜在性の肺動脈奇形が破綻。二次的に高圧と不全……そう疑ってる?」
『はい!』瀬戸先生が息を呑む。『リサさん、実際に見て、しかも助けたことがあるのは……世界でもあなたくらいかもしれません。どうすれば――』
鳳咲夜は一瞬だけ思考を跳ねさせる。
神崎蒼たちは、蒼海総合病院勤務――そこからこの動線なら。
「二十分で着く」
通話を切り、鳳一輝のもとへ駆け戻った。
「兄さん、車を貸して。急用」
「外出か? どこへ」鳳一輝が眉をひそめる。
「セントラル総合病院。緊急!」
鳳宗一郎が回復したばかりだ、と止めたかったのだろう。だが鳳咲夜の切迫した表情を見て、鳳一輝は事情を聞く余裕がないと判断した。
「俺が一緒に行く」
「大丈夫」鳳咲夜は首を振る。戻ったばかりで、まだ知られたくないことが多い。
鍵を受け取り、鳳咲夜は車に滑り込む。タイヤが乾いた音を立て、すぐに走り去った。
鳳一輝はその背中を見送り、眉間に皺を刻むと、傍らのボディガードへ合図した。
「追え。咲夜から目を離すな」
十五分後。
鳳咲夜はセントラル総合病院、救急蘇生室の前に立っていた。
「リサさん、こちらです!」
瀬戸先生が入口で待ち構え、彼女を中へ急かす。歩きながら、息もつかずに説明した。
「患者は女性、68歳。以前から軽い息切れがあったようですが未診断です。今日、重度の呼吸困難、チアノーゼ、喀血で急変し、すぐ意識混濁と血圧低下。主任は特発性の肺高血圧クリーゼと判断して、血管拡張剤Rとノルアドレナリンを持続投与する準備に入っています」
話し終える頃には、救急ベッドの脇へ到着していた。
五十前後の医長が、看護師に怒鳴りつけている。
「早く投与! アドレナリンも準備! 挿管! ICUへ連絡! 圧を下げろ、血圧は落とすな!」
「堂島主任!」瀬戸先生が駆け寄る。「こちら、リサさんです。このタイプの稀な状況に経験があって……一度、患者を見てもらえませんか」
堂島健吾主任は振り向き、鳳咲夜を上から下まで値踏みした。
若い。整っている。冷たい気配はあるが、医師には見えない。
眉をひそめ、苛立たしげに手を振る。
「瀬戸先生。ここは救命の現場だ。友だちの見学じゃない。今は一秒も無駄にできない。俺の方針で行く!」
看護師が薬剤の準備を進める。
「その薬は使わないで」
鳳咲夜の声は大きくない。それでも、雑踏をまっすぐ貫いた。
彼女はベッドへ寄り、手早く状態を拾う。
「この患者さん、反復する鼻出血の既往は? 直系親族に同じような症状、もしくは血管異常はありますか」
鳳咲夜が、涙をこらえきれずにいる家族へ問いかける。
女性は一瞬戸惑いながらも、慌てて頷いた。
「あります……母はよく鼻血を出してました。叔父も、脳の血管奇形で亡くなったって……関係あるんですか?」
その返答で、鳳咲夜の中の確信は八割まで固まった。
堂島主任へ向き直る。
「堂島主任。原発性の肺高血圧じゃない。遺伝性出血性毛細血管拡張症の可能性が高い。あなたが血管拡張剤Rで肺血管を拡張して、強い昇圧剤まで入れたら、奇形血管の出血を増やして死を早める」
堂島主任の顔が険しく沈む。
「戯言だ! 臨床所見も検査も肺高血圧クリーゼだ。どこの誰かも分からん小娘が、俺の診断に口を挟むな。救命を遅らせた責任、お前が取れるのか!?」
「三例処理した。そのうち二例は生存」
鳳咲夜は一歩も引かず、堂島をまっすぐ見据えて言い切った。
「そして、あなたの投薬を続ければこの患者は確実に死ぬ。なら聞く。堂島主任、今この場で――家族とスタッフ全員の前で答えて。あなたはその診断と投薬の責任を、患者の生死まで含めて、最後まで背負える?」
