第5章 死体解剖の時、自然に分かるだろう
「……俺は……」
堂島健吾は鳳咲夜の言葉に喉を塞がれ、胸の奥がきゅっと締まった。こめかみの血管がぴくりと浮き、すぐに消える。
衆目の前で、自分の判断が誤りだったかもしれないと認めろというのか。しかも素性の知れない若い女に頭を下げろと?
主任としての権威は、どこへ行く。
だが――『最後まで責任を取れ』。その一言が、鉛のように重い。
医者を何年やってきたと思っている。目の前の患者は、すでに綱渡りだ。いま下す判断ひとつで、生死が決まる。
「堂島主任、時間がありません!」
傍で瀬戸先生が焦った声を上げる。
堂島健吾は奥歯を噛みしめた。
ここで怯んだら終わりだ。小娘に屈したと思われる。
「いい! そこまで言うなら言ってみろ! じゃあどうする!? 薬を使わず、黙って死ぬのを見てろってのか!?」
言葉尻を尖らせ、鳳咲夜へ突き返す。
「CTに明らかな奇形は写ってない! いまから血管造影だと? この状態で動かしたら、その場で心停止だ! 名医だと言うなら助けてみろ! 口で言うだけなら誰でもできる!」
「昇圧薬と肺血管拡張薬を、直ちに中止」
鳳咲夜は間髪入れずに言い切った。
「IVRと胸部外科へ連絡。緊急で経カテーテル肺動脈造影、必要なら塞栓止血。並行して、新鮮凍結血漿と凝固因子を速やかに投与……」
一つ言うごとに、瀬戸先生の目が明るくなる。周囲のベテラン研修医たちも、息を呑んだまま頷き合った。
大胆だ。だが筋が通っている。堂島の定型処置より、核心に当たっている――そう顔に出てしまっていた。
だが堂島健吾は、逆に苛立ちが噴き上がった。鼻で笑い、吐き捨てる。
「絵空事だ! その身体で手術台に上げられるとでも? お前の理屈で事故が起きたら、誰が責任を取る!? お前か!」
「私が取る」
鳳咲夜は一歩も引かない。
「取る? どうやって取るんだよ」
堂島健吾は声を荒げた。
「医師免許は? うちの医師か? 医療事故が出たら責任を負うのは病院だ、俺だ!」
指先で鳳咲夜を突き、瀬戸先生へ怒鳴りつける。
「瀬戸先生! 連れてきたのは何者だ! 救命を邪魔したら共犯だぞ!」
「堂島主任!」
瀬戸先生も堪えきれず叫ぶ。
「神崎教授のご友人です! リサさんは――」
「黙れ!」
堂島健吾が乱暴に遮った。
「いま指揮を取ってるのは俺だ! 俺のやり方で行く! 何が起きても俺が責任を取る! 俺が何十年現場でやってきたと思ってる。小娘ごときに負けるか!」
半分の勝算でも賭ける。権威と面子のために。
鳳咲夜の表情が、すっと冷えた。モニターを一瞥し、淡々と言う。
「あなたには責任は取れない」
「いま使ってる薬は、死を早める。あなたの『責任』は、ただの博打。五割に賭けるだけ。でも負けるのはあなたじゃない。患者よ」
「貴様……!」
堂島健吾は震え、今にも掴みかかりそうになる。
そのとき、若い医師が小声で漏らした。
「神崎教授がいれば……去年、アングリアで似た症例を扱って、論文も出てたはず……」
その名を聞いた瞬間、堂島健吾の顔がさらに歪む。
神崎蒼。特聘の心臓血管外科医。三十にして副医長、複雑重症の心肺では院内随一――そして、堂島の地位を最も脅かす男。
学術も流儀も違う。水面下の争いは、もう長い。
今ここで神崎の名など出されたら、引けるはずがない。
「黙れ! 神崎蒼は出張中だ! いまここは俺が決める! すぐ俺の指示通りに動け!」
そして鳳咲夜へ、見下した声を投げつける。
「どこから拾ってきたか知らんが、ここは三次救急の現場だ。素人が口を出す場所じゃない」
侮蔑を隠しもしない。
「若いくせに、医大もまともに出てないだろ。論文を数本読んだだけで天才気取りか? 今すぐ出ていけ。でなければ警備を呼ぶ」
ほとんど人格攻撃だった。
事情を知らない看護師たちの視線にも、疑いが混じる。若すぎる。落ち着きすぎる。医師というより、見物人みたいだ。
「堂島主任! そんな言い方――!」
瀬戸先生が顔を真っ赤にして反論しかけた、その瞬間。
背後から、冷たい低い男の声が落ちた。
「……堂島健吾」
空気が一瞬、凍る。
全員が振り向いた。
濃いグレーのスーツ。背筋の通った若い男が、無駄のない足取りで救命室へ入ってくる。鼻梁にはリムレス眼鏡。整いすぎた顔に、禁欲的な冷気。
神崎蒼だった。
――出張中じゃなかったのか。
堂島健吾は一瞬だけ目を見開き、動揺が走る。だがすぐに取り繕い、咳払いをした。
「神崎さん、なぜここに? いま緊急事態だ。俺が指揮を――部外者は干渉するな」
神崎蒼は聞いていない。
視線は堂島を越え、まっすぐ鳳咲夜へ落ちた。
レンズの奥の鋭い眼差しが、彼女を捉えた瞬間――明らかに和らぎ、そこに敬意まで滲む。
神崎蒼は足早に近づき、周囲が言葉を失う中、わずかに頭を下げた。
「リサさん。まさかここにいらしたとは。海斗から連絡が入り、最短の便に変更しました」
鳳咲夜は小さく頷く。
「神崎教授。患者が危険。HHTにびまん性肺胞出血合併が疑わしい。でも堂島主任は肺高血圧クリーゼの定型処置を押し通してる」
神崎蒼の目が凍る。
モニターと患者、薬剤を一瞥――十秒もかからず結論に達し、堂島健吾へ冷たく向き直った。
「堂島主任。その薬、患者を早く殺したいのか?」
堂島健吾の頬が引きつった。衆目の中で真正面から否定され、面子が砕ける。
「神崎蒼! どういう意味だ!」
声を荒げ、押し返す。
「臨床所見は肺高血圧クリーゼだ! ガイドライン通りだ! そもそもお前と、その女が言うHHTに確かな証拠があるのか? 証拠もなく上級医の治療方針を非難するのが、お前の職業倫理か!」
「証拠?」
神崎蒼は眼鏡を押し上げ、口元に冷たい笑みを浮かべた。
「その薬で患者が死んだら、解剖でいくらでも出る」
「貴様……!」
堂島健吾が怒鳴り返しかけた、その瞬間。
神崎蒼が手を上げた。
パァン!
