第6章 これはまさに人殺しだ

堂島健吾は殴られ、よろけて一歩下がった。眼鏡が宙を舞い、床へ跳ねる。

一同が凍りついたようにそちらを見た。

冷静沈着で知られる神崎教授が――公衆の面前で、手を上げた?

堂島健吾は頬を押さえ、怒りで全身を震わせた。

「き、貴様……俺を殴ったのか!? 神崎蒼! 調子に乗るな!」

神崎蒼は手を払うように指先を振り、堂島を一度も見ないまま、呆然と立ち尽くす医師と看護師たちへ向き直る。

「リサさんは、私が信頼する方だ。師と呼んでも過言ではない。彼女の専門判断が、何よりも優先される」

堂島健吾の顔が歪む。驚きと怒りがない交ぜになった表情だ。

神崎蒼の高慢さは知っている。そんな男が「師」と口にする相手が、凡庸なはずがない。

――まさか。この鳳咲夜に、本当に何かあるのか?

いや、あり得ない。どう見たって小娘だ。

神崎蒼が自分を潰すために持ち上げているだけに決まっている。

「神崎蒼! でたらめを――こいつが師だと……!」

食い下がろうとした堂島に、神崎蒼は一切の余地を与えない。

「瀬戸海斗、他の医師と看護師も。リサさんのさっきの案で動け。急げ!」

「はい!」

瀬戸が真っ先に声を張り、他のスタッフも神崎蒼の圧に押されるように動き出す。

鳳咲夜は神崎蒼へ小さく頷き、再び患者へ身を屈めた。手際よく身体所見を取りながら、淡々と告げる。

「介入の塞栓が失敗、あるいは出血点が特定できなければ、緊急開胸になる可能性がある。麻酔リスクは高い。最も経験のあるチームが必要」

「了解。麻酔科は私が当たる」

堂島健吾は完全に蚊帳の外だ。神崎蒼が鳳咲夜の指示で、まるで副助手のように動く――その光景が、癇に障って仕方がない。

「いいだろう。いいだろうさ!」

堂島は乾いた笑いを漏らし、床に落ちた眼鏡を拾ってかけ直した。

「お前らが仕切るのは構わん。だが、話ははっきりさせろ。この患者は九死に一生だ。聞いたこともない治療方針で高リスク操作をする。手術台で死んだら、責任は誰が取る?」

神崎蒼が眉を寄せる。

「責任は当然――」

「当然、俺とお前が負うんだ!」

堂島が声を張り上げ、空気を裂いた。

「彼女は当院の職員じゃない。ここを診療地として登録もしてない。オペ室に入る資格すら怪しい! 主刀など論外だ!」

さらに周囲へ向け、わざと大声で煽る。

「聞け! 素性不明の外部者が、検証不足の方法で高リスク操作をやる。神崎副部長は惑わされて暴走している! 事故が起きたら重大医療事故だ。神崎蒼が主責任、科も病院も巻き添えで背負うことになる!」

医療スタッフの間に、ためらいが走った。言い方は最悪だが、資格の問題は確かに引っかかる。

神崎蒼の視線が氷のように冷える。

「堂島主任。今は人命救助だ。権力争いじゃ――」

「人命だからこそ遊びは許されん!」

堂島は食い下がり、さらに声を荒げた。

「神崎蒼。そこまで信じるなら、この場で保証しろ。何が起きても、お前一人で全責任を負うと!」

一瞬、沈黙が落ちた。

堂島は勝ち誇ったように口角を歪める。

「ほら、言えないだろ。規則違反だと分かってるんだ。なら――」

「不要」

澄んだ、冷たい女声が切り落とした。

鳳咲夜が顔を上げ、堂島健吾をまっすぐ見据える。

「私が主刀するなら責任は全て私が負う。誰も巻き込まない。失敗したら警察が来ればいい」

「リサ!」

神崎蒼と瀬戸が同時に声を上げる。

「ただし」

鳳咲夜の瞳は揺れない。静かに、堂島を射抜く。

「成功して患者が助かったら、堂島主任。今日の誤診と救命の妨害、それに私への人格攻撃について、全院の前で公開謝罪。そして循環器内科主任を自ら辞任して」

誰も息ができなかった。

賭け金が重すぎる。堂島健吾のキャリアと人生、そして若い外科医の未来――すべてを天秤に載せる宣言だった。

堂島は自分の言葉で逃げ道を塞がれ、顔色を何度も変えた。だが衆目の前で退くのは、負ける以上の屈辱だ。

歯を食いしばり、吐き捨てる。

「いい……一言も二言もない! 一言で決めよう。一言為定だ! やってみろ! 録画しろ、証拠だ!」

鳳咲夜はもう堂島を見ない。神崎蒼へ短く言った。

「すぐ手術準備」

ほどなく患者はオペ室へ搬送され、無影灯が点る。麻酔科医が鳳咲夜へ頷き、導入完了を示した。

鳳咲夜は主刀位置に立ち、深く息を吸う。そして手を差し出した。

「造影カテーテル」

――誰も渡さない。

鳳咲夜は器械台の看護師へ視線を向ける。若い看護師は目を泳がせ、こちらを見ない。手は器械台の上で固まったまま、微動だにしない。

「造影カテーテル」

鳳咲夜が繰り返すと、看護師は唇を噛み、俯いた。

「ほ、鳳先生……この手術、難しすぎて……私、補助したことがなくて……ついていけないかも……」

神崎蒼の顔が沈み、口を開きかける。

だが鳳咲夜は視線を外し、巡回看護師と補助スタッフへ向けた。

「交代。肺血管の介入器械に慣れてる人は?」

巡回看護師と助手の看護師が目を合わせ――同時に、黙って俯いた。

オペ室に残るのは、モニターの電子音だけ。ピッ、ピッ、と乾いた音がやけに響く。

神崎蒼は悟った。堂島健吾だ。

外で手を回し、看護師たちに消極協力をさせている。

主刀がどれほど巧くても、器械が出てこなければ一歩も進めない。人の命を賭け金に使う――それは、もはや殺しだ。

「君たち――!」

神崎蒼が怒りで踏み出しかけた瞬間、鳳咲夜が片手を上げて制した。

「協力する看護師はいない、でいい?」

淡々とした確認。返事はない。

「結構」

鳳咲夜は頷き、神崎蒼へ向き直る。

「神崎教授。器械出しを兼任して。私が欲しいものは、3秒以内に必ず手へ」

幼さの残る瞳に、異様な光が宿る。

「できる?」

神崎蒼は深く息を吸い、強く頷いた。

「リサさん。全力で合わせます」

「それで十分」

鳳咲夜は些末事とでも言うように言い捨て、術野へ視線を落とす。

「始める」

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