第7章 お前たち全員を道連れにする
オペ室の外は、重たい沈黙に包まれていた。
――そのとき。
廊下の奥から、ばたばたと荒い足音が迫ってくる。
「どけ」
冷えた声が飛ぶや否や、黒いスーツのボディガードたちが人波を割り、瞬く間に一本の通路を作った。
先頭を歩く男は、息を呑むほど端正な顔立ち。だが眉間には溶けない氷が張りついている。姿を現した瞬間、周囲は反射的に視線を落とし、誰も正面から見られなくなった。
宝生尊。
蒼海市・宝生家の現当主であり、宝生グループの頂点に立つ男だ。
その背後には、国内外の心脳血管分野の権威が三、四人続いていた。
「おばさん!」
宝生尊は宝生紀香のもとへ早足で寄る。
「祖母はどうした!?」
廊下の壁際で崩れるように座り、声を殺して泣いていた宝生紀香は、尊を見た瞬間、縋るように顔を上げた。涙で濡れた目が揺れる。
「尊……やっと来てくれた……! お義母さまは、もう手術に入ってるの。神崎蒼先生が決めたのよ!」
神崎蒼――その名に、宝生尊はわずかに息を吐いた。
腕の立つ医師として、噂は耳にしている。
「先生方、準備しろ。神崎教授の補助に入れ」
宝生尊は背後の専門家チームへ短く命じた。
「でも……」
宝生紀香が逡巡しながら続ける。
「中に、女の先生がいるの。神崎先生が呼んだ方で……今から人が入ったら、まずいんじゃ……」
「女医?」
宝生尊の眉が寄った。
神崎蒼が他人を頼るなど、聞いたことがない。どこから連れてきた?
その瞬間――。
堂島健吾が宝生尊の表情の変化を見逃さなかった。目の奥に、いやらしい光が走る。
(来た)
彼は転がるように駆け寄り、宝生尊の前へ頭を下げた。
「宝生さん! お待ちしておりました! どうか、宝生奈々枝さんをお救いください! 中は……中は、とんでもないことになってます!」
宝生尊の視線が刃のように堂島へ落ちる。
「とんでもない? どういう意味だ」
「神崎教授が連れてきたのは、専門家などではありません! どこの誰かも分からない小娘です!」
堂島は一息でまくし立てた。
「当院の医師でもない。医師免許すら怪しい! なのに神崎教授をたぶらかして――今、中で老夫人の手術を主刀しているんです! しかも方法は聞いたこともない、危険極まりないもの! 老夫人の命を弄んでる!」
宝生尊の目に冷気が走った。
二十そこそこの人間が、祖母に高リスク手術――?
冗談にすらならない。
宝生尊は怒りを押し殺せず、宝生紀香へ鋭く向き直る。
「姑母さん。どうして素性も分からない奴に、祖母の手術をさせて黙ってた」
「し、知らなかったの……!」
宝生紀香は弾かれたように立ち上がり、声を震わせる。
「経験がありそうで……神崎先生も大丈夫だって言うから……それで……」
「ふざけるな!」
宝生尊の一喝が、廊下を震わせた。
だが、今さら姑母を責めても何も変わらない。必要なのは、止めることだ。
「引きずり出せ。今すぐ手術を止めろ」
宝生尊は低く吼えた。
「従わないなら、今日ここにいる全員、祖母の後を追わせる」
ボディガードが半歩前へ出る。空気が一気に張り詰め、刃物めいた殺気が走った。
「宝生さん!」
沈黙していた瀬戸海斗が、ついに耐えきれずオペ室の前へ立ちはだかる。
「手術はもう始まっています! ここで強引に中断したら、宝生奈々枝さんはすぐ命が――!」
宝生尊の眼差しが鋭くなる。
「どけ」
「宝生さん……!」
そのとき、オペ室の扉がわずかに開き、神崎蒼が顔を覗かせた。
外の喧騒が聞こえたのだろう。中の執刀医に追い出されたような、そんな気配で。
宝生尊は神崎を見た瞬間、怒りをさらに燃え上がらせる。
「いい度胸だな」
低い声が氷のように落ちた。
「お前ら二人、今すぐ出てこい」
「宝生さん、聞いてください!」
神崎蒼は声を張り、宝生尊の怒声を正面から押し返した。
「中の主刀医は若い。ですが、HHT合併肺血管奇形の処置経験は、私が見てきた中で最も豊富です! 彼女の判断と方法こそ、今ある唯一の可能性です。私は自分のキャリアと命を賭けて保証します!」
「保証など信用できん」
宝生尊は容赦なく切り捨てた。
「才能があると思ったが、愚かで軽率だったか」
堂島健吾が陰気に付け足す。
「宝生さん、彼らは賭けまでしてます。老夫人の命と、自分たちの前途を天秤にかけて……正気じゃありません」
火に油だった。
宝生尊の瞳がさらに冷え、腕が上がりかける。ボディガードへ合図し、力づくで引きずり出すつもりだ。
「宝生さん!」
神崎蒼が扉の前に身を投げるように立った。
「消毒せずに入れば感染します! それだけは――!」
専門家チームも慌てて口を挟む。
「その通りです。今はすでに手術が始まっている。ボディガードが入るのは――」
「極めて危険です」
「なら消毒して入れ。引きずり出せ」
宝生尊は歯を食いしばる。
「お前たちが代わりに執刀しろ」
神崎蒼はそこで踏み込んだ。
「宝生さんの専門家でしょう。なら、リサの方針を説明します。妥当かどうか、先生方が判断してください」
宝生尊が答えるより早く、神崎蒼は要点だけを切り出し、専門家たちへ手術方針を伝えた。
最初は眉をひそめていた彼らの表情が、次第に変わっていく。
「喀血と呼吸困難……確かにHHTの可能性はある」
「治療方針も筋が通っている。去年、専門誌で似た報告が――」
年配の専門家の一人が宝生尊の耳元へ身を寄せ、小声で何かを告げる。
宝生尊の眉間の皺が、ほんのわずか緩んだ。
だが、それでも。
見知らぬ相手を、祖母の命の現場で信じろというのか。
宝生尊は神崎蒼を睨みつける。
「中で横たわっているのは、俺の祖母だ」
一語一語、噛み砕くように言う。
「俺の専門家は入る」
「入れば邪魔になります」
神崎蒼は首を振った。
「人が増えるほど乱れる。彼女はそういうタイプです」
宝生尊の顔が険しくなる。
「なら――妥協案です」
神崎蒼は一歩も退かず続けた。
「オペ室の監視映像を繋いでください。ライブで見せます。あなたのチームが目で確認できる」
ライブ中継。
宝生尊は数秒、神崎蒼を見据えた。
強引に介入すればリスクが跳ね上がることも分かる。だが、何者かも分からない人間に任せきるなど、なおさらあり得ない。
――見るしかない。
「いい。すぐ繋げ」
宝生尊は吐き捨てるように言った。
「危険だと判断した瞬間、止めさせる。祈れ。祖母が無事であるように」
神崎蒼はようやく息を吐いた。
ほどなく、オペ室の映像が外のモニターへ映し出され――
顔を上げた瞬間、そこにいた全員が、凍りついたように固まった。
