第8章 彼女じゃ無理だと分かってた
オペ室にいたのは、たった一人。
「リサ」と呼ばれた若い少女が主刀位置に立ち、たった独りで手術を進めていた。
その光景に、廊下の空気が一瞬で凍る。
――つまり。神崎蒼が席を外していた間も、彼女は一人で……?
それでも手は揺れない。
刃の入れ方は容赦なく正確で、わずかなズレすら許さない。
「……こ、これは……」
専門家の一人が反射的に眼鏡を押さえた。
「片手で術野を展開しながら、顕微剥離と止血を同時に? どうやって――」
「見ろ、あそこだ!」
別の専門家がモニターの隅を指さす。
「いま処理している奇形血管叢……深すぎる。重要な気管支と肺動脈主幹の分枝に張り付いてる。少しでも狂えば致死的出血だぞ……なのに……」
声が震える。
「血管の走行も、つながりも、全部頭に入ってるみたいじゃないか……!」
誰もが息を呑んだ。
嘲りの混じっていた視線は、いつの間にか真剣そのものへ変わっている。耐えきれずメモを取り始める医師までいた。
宝生尊の表情は相変わらず氷のように冷たい。だが胸の奥では、確かな衝撃が膨らんでいた。
医学は分からない。だが――「効率」と「精度」なら見える。
一手一手が、岩のように揺るがない。
これは、虚勢で誤魔化せる領域ではない。
――この少女は、何者だ。
「堂島主任」
神崎蒼が汗を浮かべた堂島健吾へ、氷の視線を投げる。
「本来チームで回す手術だ。なぜ補助がいない。連携不足で何か起きたら――お前が責任を負えるのか?」
堂島健吾は顔色を変え、しどろもどろに叫んだ。
「し、知らん! 看護師の配置はお前だろ! 動かないのは俺のせいじゃない! 医療安全のためかもしれないだろ! こんな稀で高リスクな手術、誰だって怖い! 下手に手を出して足を引っ張ったら責任が増えるんだ!」
唾を飛ばし、最後は言い訳のように付け足す。
「そ、それに……本人が『責任は自分が取る』って言ったんだろ!」
「逞しい?」
宝生家が呼んだ老専門家が、堪えきれず堂島を睨みつけた。
「心胸外科四十年の経験で断言する。画面の医師が示している技術は、世界のトップセンターに置いても最上位だ。それを逞しいで片付けるのか」
堂島健吾は言葉を失い、顔面が灰色に沈む。
「……とにかく、俺は知らん」
宝生尊は冷たく一瞥し、それ以上は切り捨てた。
今は揉めている場合じゃない。鳳咲夜の補助に戻らなければ――。
だが、まだ消毒も終わらないうちに。
オペ室の外から、どっと歓声が湧いた。
神崎蒼の心臓が跳ね、反射的に駆け出す。
モニターの中。
鳳咲夜の手がわずかに止まり、導管を滑らかに引き戻した。
――成功。
「奇形血管の塞栓、成功! 肺動脈圧が下がり始めた!」
神崎蒼がデータを睨み、震える息で言う。
「よかった……!」
専門家たちも思わず声を漏らす。
宝生尊の強張った肩が、ほんのわずかに緩む。
画面の中の細い背中は、淡々と縫合を続けていた。針の運びさえ無駄がなく、縫い目が美しい。
――もう疑う余地はなかった。
堂島健吾の顔色だけが、見る見るうちに悪くなる。
あり得ない……。
やがて、オペ室の灯が落ちた。
しばらくして、扉がゆっくり開く。
最初に出てきたのは鳳咲夜だった。
思ったよりずっと若い。
小さな顔立ちは精緻で、しかし疲労で血の気が薄い。
(天才……)
そんな言葉が、誰の胸にも浮かぶ。
鳳咲夜は周囲の視線など気にも留めず、一歩前へ出た。
「ひとまず生命の危険は脱しました。回復室で経過観察に入ります。今後は――」
言い終える前に、身体がふらりと揺れた。
数時間の極限。精神も体力も限界まで削っている。
倒れかけた瞬間、大きな手が伸び、彼女の腕を確かに支えた。
鳳咲夜がふっと目を上げる。
底の見えない黒い瞳と、視線がぶつかった。
「……ありがとうございます」
借りた力で立ち直り、すっと腕を引く。
宝生尊は黙って見下ろしていたが、やがて漆黒のカードを差し出した。
「これは?」
鳳咲夜が眉を上げる。
「報酬だ」
宝生尊は簡潔に言う。
「限度額なし。婆さんを救ってくれて感謝する」
廊下に、息を呑む音が広がった。
宝生家の“太子”が持つ、私人用の無制限ブラックカード。金額以上に、承認と約束そのものだ。
堂島健吾はカードを睨み、目が血走る。
――自分が主刀していれば。あれは、自分の手に入るはずだったのに。
鳳咲夜はカードを見つめ、口元に意味深い弧を浮かべた。
断りもしない。指先で挟み取り、コートのポケットへ放り込む。まるで名刺でも受け取るように。
「宝生さん、ご丁寧に。医者の本分です」
淡々とした声音のまま、続ける。
「……でも、もらえるものはもらいます」
金と喧嘩するほど愚かじゃない。
翠嵐研究所も、ちょうど資金が足りない。これで研究を止めずに済む。薬が完成すれば救える命が増える――差し出された得を、突き返す理由などない。
宝生尊の目がわずかに深くなる。
この泰然とした反応が、意外だった。
鳳咲夜は宝生尊から視線を外し、神崎蒼と専門家へ引き継ぎを続ける。
「主な出血点は処理しました。ただ、HHTは全身性です。特に神経系を含め、他臓器の精査と継続的フォローを。それから術中に一度、心室性不整脈が出ています。薬剤で抑えましたが、心筋の潜在損傷も――」
そのとき。
隣室のモニターが、甲高い警報を鳴らした。
看護師が蒼白で飛び出してくる。
「大変です! SpO2が急低下、心拍数上昇、血圧も落ちています!」
全員の顔色が変わった。
堂島健吾は一瞬ぽかんとし――次の瞬間、歪んだ歓喜を爆発させた。
「ほら見ろ! 事故だ! 言った通りだ! あいつの手術は失敗だ、婆さんを殺したんだ!」
わめき散らし、周囲へ吠える。
「捕まえろ! 逃がすな!」
