第9章 彼女は自分の招待などまったく意に介さない

「黙れ!」

宝生尊が怒声を放ち、刃物みたいな視線で堂島健吾を射抜いた。

堂島の声が喉でぶつりと途切れる。

鳳咲夜は堂島のわめきなど耳にも入れず、即座に踵を返した。

「気道の問題か、人工呼吸器の回路異常の可能性。ついてきて!」

神崎蒼と数名の専門医も反射的に動き、後を追う。

宝生尊も目を沈めたまま、大股で続いた。

鳳咲夜はベッド脇へ滑り込み、老婦人の状態を一瞬で拾い上げる。

「気道じゃない」

判断は刹那。指先が人工呼吸器のチューブに沿って走り、接続部へ――。

つまみを見つけ、きゅ、と軽く締めた。

次の瞬間、落ち着かなかった心拍がゆっくり下がり、血圧も持ち直していく。

早すぎた。

アラームが鳴ってから、収束まで一分もかかっていない。

「送気回路と人工気道の接続部がわずかにリークして、有効換気量が不足してた」

鳳咲夜は身を起こし、追ってきた面々へ淡々と告げる。

「処置は完了」

――ただの虚惊だった。

誰もが、肺の奥に溜めていた息をいっせいに吐き出した。

専門医たちが鳳咲夜を見る目は、もはや称賛ではない。畏敬だった。

この極限で感情に引きずられない。手術の成否ではなく、機器トラブルを瞬時に切り分けてみせる。

その胆力と観察眼が、怖いほど鋭い。

宝生尊は入口に立ったまま、すべてを見届けていた。

胸の奥に、言葉にできない波紋がまた広がる。

――この女は、まだどれほどの切り札を隠している?

一方、堂島健吾の顔から血の気が消えていた。

終わった。すべて終わった。最後の望みすら、潰えた。

――三十六計、逃げるに如かず。

今なら皆の意識は老婦人に向いている。気づかれる前に――。

そう思った瞬間。

鳳咲夜がふいに振り向いた。

そして、音もなく後退していた堂島を、正確に捉える。

「堂島主任。患者さんは無事。術前の約束どおり、履行して。公開謝罪。それと循環器内科主任の辞任」

堂島は雷に打たれたように跳ね、顔を上げた。

「わ、私は……あれは緊急時の口走りで……本気じゃ……! それに、ほら、患者さんは助かったじゃないですか。誤解です、誤解! リサさん、いえ、リサ教授……! 先生ほどのお方が、どうか大目に……」

命乞いのような言葉が、醜くこぼれ落ちる。

全院、ひいては蒼海市の医療界の前で頭を下げろ? しかも、自分が散々貶した若い女に?

さらに、積み上げた主任の椅子を捨てろ?

――殺されるより惨い。

「教授なんて呼ばなくていい。誤解もない」

鳳咲夜の声は冷たかった。

神崎蒼も一歩前へ出る。

「堂島主任。あの場にいた全員が聞いていました。家族も、スタッフも。あなたはリサさんの力を疑っただけじゃない。患者さんの命と、私たちのキャリアを賭けにした」

視線を鋭くする。

「助かったから帳消し? そんな理屈が通るとでも?」

「わ、私は……」

堂島は冷や汗を滲ませ、専門医たちへ縋るように目を向け、最後に宝生尊へ助けを求めてちらりと見た。

だが専門医たちは揃って首を横に振り、露骨な軽蔑を隠さない。

医師が信義を踏みにじる。それも命を賭け金にするなど――論外だ。

宝生尊の目は、すでに氷だった。

祖母の容体に追われ、相手にする価値すらない道化と切り捨てていたが、いま話を聞けば、何もかも分かる。

――自分の祖母の命で、賭けをした。

「堂島主任は、宝生家の言葉も軽いと思っているのか」

宝生尊が口を開いた途端、病室の空気が凍りついた。

堂島の膝が折れかける。

「ほ、宝生さん……そんなつもりじゃ……」

「五十嵐修」

宝生尊は堂島を見もしないまま、背後へ命じた。

「はい、宝生さん」

助理の五十嵐修が即座に前へ出る。

「堂島主任は“約束”の重さが分からないらしい。まず外へ出して頭を冷やさせろ」

宝生尊の声音は淡々としているのに、容赦がない。

「それから病院理事会と医療保健局へ連絡。今日の一件を詳細に報告しろ。特に堂島主任の救命の場での“見事な働き”と“一諾千金”を、そのままにな」

視線だけが堂島を落とす。死体を見るように。

「最終的な処分が出るまで、医療の場であいつの顔を見たくない」

「承知しました」

五十嵐修が手を振ると、屈強な護衛が二人、左右から堂島を掴んだ。

「ま、待ってください! 私が悪かった! 宝生さん! 本当に……! 償います、いくらでも! どうかチャンスを――!」

護衛は情け容赦なく堂島の口を塞ぎ、そのまま引きずり出した。

廊下の向こうで、くぐもった泣き声と足掻く音が遠ざかり、やがて消える。

宝生尊がゆっくり振り返り、室内の医療スタッフへ目を向けた。

「見たな」

声は低い。

「職業倫理を踏みにじり、命を軽んじた末路だ」

誰も息を呑んだまま、言葉を出せない。

その一言は、この場の全員に突きつけられていた。

――これが宝生家の太子の手段。雷のようで、逃げ道はない。

鳳咲夜は、宝生尊のやり方に特段の感想もない。

淡々と視線を戻すだけだ。

彼女はこの病院の人間ではない。

神崎蒼に頼まれて来た。それだけ。

患者が落ち着いたなら、やることは終わり。

「神崎教授。後療法の詳細と観察ポイントはメッセージで送る」

鳳咲夜は小さく会釈する。

「失礼します」

父のもとへ戻らなければならない。

「送ります」

神崎蒼が慌てて後を追う。

鳳咲夜は宝生尊の横をすっと通り過ぎた。

一度も、彼を見ない。

祖母の専属医として迎えたい――その言葉が、宝生尊の喉に引っかかった。

この女は、そんな誘いなど鼻で笑う。なぜか、確信があった。

それでも足が、勝手に追っていた。

二人がエレベーターの前で、細い背中が扉の向こうへ消えるのを見送る。

神崎蒼が堪えきれずに呟いた。

「宝生さん……今日は、本当にリサさんのおかげです。あの方の腕は、常識の外にある」

自嘲気味に首を振る。

「私も心臓血管外科ではそれなりにやってきたつもりでしたが……今日、天外有天を思い知りました。比べるのも烏滸がましい。彼女こそ本物の天才です」

宝生尊は黙っていた。

目だけが、消えた背中の残像を追って、深く沈む。

神崎蒼がさらに何か言おうとした、その瞬間。

横から手が伸び、神崎蒼の後頭部をぱしんと叩いた。

「いって!」

神崎蒼は頭を押さえ、驚いて振り向いた。

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