第1章 家から追い出される

スーツケースが、新田水紀の目の前に置かれた。

「お前、実の親と離れて長かっただろ。父さんも……これ以上は引き留めない」

新田中尾はそう言いながら、瞳の奥にわずかな痛みを滲ませた。数か月前――見知らぬ番号からかかってきた一本の電話。相手は、新田水紀の実母だと名乗った。

そこから紆余曲折を経て、新田家は“本当の娘”新田真乃を取り戻した。

新田中尾は小さく息を吐く。

「お前が帰るのは茂峰町だったな。あそこは山道が悪い。遅くなると物騒だ」

水紀の実家は貧しく、家族はしょっちゅう食べるものにも困っている――そんな噂まで耳に入っていた。そんな相手に絡まれたら、面倒が増えるだけだ。

「父さんは送らない」

あの連中に顔を見られて、たかられるのは御免だった。

新田水紀はゆっくり立ち上がり、目の前のスーツケースを見下ろす。表情は驚くほど静かだ。

「荷物はいらない」

そう言い捨てて、踵を返す。

だが裏庭へ出たところで、母の山崎和美に行く手を塞がれた。抜け目ない視線が、上から下まで品定めするように水紀をなぞる。

「あなたが行くところ、貧乏なんでしょう。このコートは目立ちすぎるわ。噂される。脱いでいきなさい、あなたのためよ」

山崎和美が国際的なデザイナーに特注したコートだ。宝石の装飾だけで目が眩むほどの価値がある。三浦家との縁談で“格”を誇示するため、無理をして仕立てたもの――それを持ち出されたら、損どころではない。

返事も待たず、手が伸びてくる。

「自分でやる」

新田水紀は半歩退き、コートを脱いだ。

棚に掛かっていたから、何も考えず羽織っただけだ。まさか十八年間“母さん”と呼んだ女に、盗人を見る目で見られるとは。

「水紀、向こうへ行ったら大人しくしなさい」

山崎和美は自然に水紀の手を取り、心配しているふりをしながら袖口をそっと引き上げた。手首に何もないと分かると、ようやく息をつく。

「次はどこを探すの」

新田水紀は冷たく見返し、両手を上げて投げやりに言った。

「いっそ全部ひん剥いて確認したら? 私がどんな宝物をくすねたか、ね」

山崎和美の顔が青くなったり赤くなったりする。図星を刺された焦りが、怒りへ変わった。

「新田家が何年あなたを育てたと思ってるの! 養育費を請求しないだけありがたく思いなさい。何その態度!」

「そっちがその態度なら、私も同じ」

新田水紀は一歩も引かない。

山崎和美は胸を上下させ、手を振り上げた。だが――

その手首を、水紀がぴたりと掴む。

「もう、私を叩く資格はない」

昔は何度も、山崎和美の平手を受けた。

「この不孝者!」

山崎和美は力任せに引こうとするが、びくともしない。

――なに、この子……いつからこんな力が……!

「――ッ!」

ぱぁん、と乾いた音。

頬が裂けるように痛んだ。水紀が我に返ると、目の前に新田中尾が立っていた。容赦のない平手打ち。

「十八年育てた母親に手を上げるとは! 何のために育てた!」

水紀の意識は山崎和美に向いていて、新田中尾が近づいたことに気づかなかった。頬が熱く焼けるように痛む。だがここは新田家。今は勝ち目がない。

腫れた頬を押さえ、水紀は氷みたいな声で言った。

「この一発、いつか必ず返す」

そう言って背を向ける。

去り際、裏庭の薔薇畑に名残惜しそうに目を向けた。祖母が重い病に伏す前、水紀のために植えてくれたものだ。薔薇のように美しく、尽きぬ愛を受けるように――そう願って。

ここに残る、唯一の未練。

本当は最後に剪定していくつもりだった。もう、叶わない。

そのとき、淡いピンク色の――爪先までダイヤが埋め込まれたハイヒールが、ゆっくり花園へ踏み入った。咲き誇る薔薇を踏みつけ、ぐり、と土へ捻じ込む。

「お姉ちゃん」

新田真乃が、気品あるプリンセスドレスで立っていた。隣には三浦家の若様、三浦亮治。

――かつて新田水紀の婚約者だった男。

「パパ、どうしてお姉ちゃんに手を上げるの?」

真乃が甘えるように言う。

「お姉ちゃんだって、急にお金持ちから貧乏に落ちるんだもん。悔しいのは当然だよ。うちは名家なんだから、もっと広い心でいなきゃ」

蜜のような声に、新田中尾の気分は上向いた。真乃を見る目に、愛おしさと誇らしさが混じる。

「お前は本当に立派だ。あいつに何年も令嬢の座を奪われていたのに庇うなんて。これこそ新田家の娘だ、度量も優しさもある!」

褒められた真乃は、謙虚に微笑む。

「お姉ちゃん、気にしないで。私が代わりにちゃんとパパとママに親孝行するから」

水紀はその薄っぺらさに付き合う気はない。冷たく言った。

「私の花、踏み荒らした」

「うちの花でしょ?」

真乃は勝者の笑みを浮かべる。

「ここ、ラベンダーに変えるつもり。紫の海って素敵じゃない? 薔薇って、ちょっと俗っぽいし」

品がないと言っているのと同じだ。

「それはおじいちゃんが植えた」

水紀は低い声で言う。

「あなたに変える権利はない」

祖父は新田家の大半の事業を握っている。新田中尾も山崎和美も逆らえない存在だ。

つまり水紀は、真乃に突きつけたのだ。――お前には権限すらない、と。

真乃の表情が陰る。拳をきつく握りしめた。

水紀が去ろうと背を向けた瞬間、真乃は覚悟を決めて数歩追い――口では大らかに言う。

「お姉ちゃん、外まで送るよ」

階段を降りる水紀に寄り添い、真乃は視線を鋭くし――そっと体当たりして突き落とすつもりだった。

だが。

水紀は、その動きを読んでいた。

真乃がぶつかってきた瞬間、水紀は身を引く。真乃は空振りし、勢いを止められないまま――ごろごろ、と階段を転げ落ちた。

プリンセスドレスは一瞬で土にまみれ、可憐な頬には赤い筋が走る。

痛みに顔を歪め、髪を整えようとして――指先に血がついた。

美を何より愛する真乃の胸は、憎悪で満ちた。水紀を睨みつける。

だが口を開く前に、駆けつけた両親の姿が視界に入る。真乃は瞬時に弱々しい表情へ切り替え、涙を溜めて叫んだ。

「パパ! ママ! 私、お姉ちゃんを送ってあげようとしただけなのに……階段から突き落とされた! お姉ちゃんが悔しいのは分かるけど、私に当たらないで……!」

泣き声は大きく、山崎和美の胸はぐちゃぐちゃにかき乱される。娘を抱き起こしながら、水紀を見る目は憎悪に燃えた。

「この蛇蝎の女! 山に送られて当然よ! 今日、真乃に何かあったら、ただじゃおかない!」

そこへ三浦亮治も駆け寄ってくる。真乃の傷を見た瞬間、顔が硬く沈んだ。

「新田水紀! お前がこんな卑怯な人間だなんて、今まで気づかなかった!」

「亮治兄さん……」

真乃は三浦亮治の胸にすがり、哀れに泣く。

「顔が……すごく痛い……」

男の庇護欲が一気に燃え上がる。三浦亮治は水紀を仇でも見るように睨みつけた。

「今日は新田水紀を帰すな! 真乃が顔に傷を残したら、最後まで責任を取らせる!」

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