第2章 関係を完全に断ち切る
「責任?」
新田水紀は東屋の影に仕込まれたカメラを指さし、冷ややかに笑った。
「そこ、監視カメラがある」
薔薇園を見守るために自分で取り付けたものだ。まさか、こんな形で役に立つとは。
「警察に持っていけば、すぐ真相が出る」
警察と聞いた瞬間、新田真乃の顔色が変わった。
「やめようよ、亮治兄さん……お姉ちゃん、もう十分かわいそうだよ。警察なんか行ったら、これからどうするの……」
「真乃!」
三浦亮治は胸を痛めたように言う。
「お前は本当に優しすぎる!」
――ついさっきまで新田水紀に同情していたくせに。今は、婚約相手が新田真乃でよかったと心底思っている顔だった。
「昔の情で、お前の貧乏な実家に少しは手を差し伸べようと思ってた。だが……お前は自業自得だ!」
「結構」
新田水紀は鼻で笑う。
「あなたの施しなんて、汚くて触りたくない」
三浦亮治の顔がさっと青白くなる。
「お前……!」
「何?」
新田水紀は容赦しない。
「前の日は熱烈にプロポーズの指輪を渡して、次の日には別の女とベッドに転がってる。そういうののこと?」
三浦亮治は言葉を失った。
「そういえば、その婚約指輪、隣の犬がくわえてった。犬って玩具が好きでしょ」
――指輪も、過去も、犬の玩具と同じだと言いたいのか。
「恩知らずが!」
三浦亮治は怒りで胸を上下させる。
「指輪がいくらだと思ってる! 新しい家に戻って飯も食えなくなったら、後悔しても遅いぞ!」
新田水紀は相手にする気もなく、門へ向かって歩き出した。
そのとき、泥だらけの中年男がふらつきながら近づいてくる。
見覚えはない。だが新田水紀の整った眉目と、年齢不相応な落ち着きと聡明さ――それは奥様の若い頃と驚くほど重なった。
老執事は胸がいっぱいになり、我を忘れて駆け寄る。
「お嬢様!」
新田水紀はぎょっとして足を止めた。
「……どなた?」
老執事は自分の無礼に気づき、慌てて半歩下がる。
「失礼いたしました。私は一族の執事でございます。旦那様と奥様が手が離せず、私をお迎えに遣わされました」
そう言って、恥ずかしそうに頭を下げた。
「ただ……この邸宅があまりに奥まっておりまして。道が狭く、両側は泥沼ばかり。私の不注意で車を横転させてしまい……遅れるのが怖くて、急ごしらえで自転車を借りて参りました」
新田水紀はようやく、彼の後ろに二人乗りできそうな古びた自転車があるのに気づいた。塗装は剥げ、タイヤはへたり、年季は新田水紀より上に見える。
――でも。
この別荘が“奥まってる”?
自分が戻されるはずだった茂峰町より、奥まった場所があるものか。
「お嬢様」
老執事はますます恐縮した。
「自転車は乗り心地が悪いでしょう。本当に遅れたくなくて……ですがご安心ください。すでにプライベートジェットを手配しております。すぐ到着するはずです」
プライベートジェット。
新田水紀は面白そうに目を細めた。
――新しい家、全然貧乏じゃない。
「いりません」
新田水紀はここに長居したくなかった。
「自転車で十分。風にも当たれるし」
老執事は感激して泣きそうになる。気取らず、心根まで優しい――。
「それと」
新田水紀はふと思った。
「家には他に兄弟姉妹がいるの?」
「お嬢様の上に、五人のご子息がいらっしゃいます」
老執事は言いながら、新田水紀がリュック一つしか背負っていないのを見て首をかしげた。
「お嬢様、お荷物は……?」
「荷物はない」
そう言い捨て、自転車へ向かう。
ちょうど別荘から新田家の面々も出てきて、その光景を目にした。
男二人、女二人――四人とも顎が外れそうになる。
――あの老人、あそこまで貧しいのか。迎えに来たのにまともな服すらない。
――ここから茂峰町まで百キロ以上だぞ。このボロ自転車で? 途中で倒れるだろ。
新田中尾は貧民とまともに関わったことがなく、言葉に詰まった。
すると老執事が自ら歩み寄り、穏やかな口調で言った。
「新田様でいらっしゃいますね」
老執事は手を差し出し――泥だらけの掌に気づいて顔の半分まで赤くなり、慌てて引っ込めた。
「長年、お嬢様をお育ていただきましたこと、心より感謝申し上げます」
手を拭い、リュックから精巧なギフトボックスを取り出す。
「こちらは旦那様と奥様より、ささやかな心ばかり。お嬢様への養育の恩に対する御礼でございます」
箱は車のトランクに入っていたのか、汚れ一つない。陽光を受けて金の粒がきらめき、老執事の泥まみれの姿とひどく不釣り合いだった。
「近寄らないで!」
山崎和美は片手で口元を押さえ、もう片方で追い払うように扇ぐ。
「うちの敷居は上等な玉でできてるのよ。汚したら、あなたには弁償できないわ!」
老執事はその態度に言葉を失った。
萩原家に長年仕え、貴人など数え切れないほど見てきた。だが、ここまで露骨な侮辱は受けたことがない。
「その荷物、さっさと持って帰って」
山崎和美は露骨な嫌悪を向けた。貧乏人の贈り物など、開けるのも不快だ。
老執事は彼らの態度と、お嬢様が荷物もなく去ろうとしている現実とを重ね――胸の奥で不快が膨らむ。
だが旦那様の命令は絶対だ。
「小さな品ではございますが、我々の心でございます」
老執事は中へ踏み込まず、礼を尽くして両手で差し出した。
「どうかお受け取りください」
「いらないって言ってるでしょ!」
山崎和美は苛立ち、振り払うように手を振った。
その瞬間、礼盒は地面に落ち、留め具が弾ける。赤い印のついた紙が一枚、風に舞った。
老執事は慌てて追おうとするが、突風が紙をさらい――別荘の中へ吹き込んでしまう。
それは旦那様が特別に用意したものだった。新田が町長選に力を入れていると知り、議会に手を回して町長任命の辞令を贈り物にしたのだ。
――中に入ったなら、贈ったことにはなる。だが議会の公印が汚れれば、辞令は無効になる。
老執事は焦り、反射的に中へ入ろうとした。
「何をする!」
三浦亮治が容赦なく前へ出て、新田の父母を背に庇い――目の前の老執事を突き飛ばした。
老執事は地面へ倒れ込んだ。
