第3章 町長の招聘状だ!
新田水紀は慌てて駆け寄り、老執事を起こした。
顔を上げると、三浦亮治が警戒と蔑みを隠そうともしない目でこちらを見ている。
「ここまで連れてきただけでも仁義は尽くした。お前たちが何を企んでようが、今すぐ諦めて出ていけ。じゃないと通報するぞ!」
――三浦亮治という男は、どうしてここまで簡単に手のひらを返せるのか。
新田水紀は呆れるしかなかった。
ここまで来てしまえば、過去の自分が甘かった――それだけだ。
新田水紀は老執事を支え、立たせる。
これでは自転車など到底こげないだろう。
「五百メートル先に、大きい道がある」
新田水紀は老執事の耳元で囁いた。
「ヘリを、そこに降ろして」
老執事は、お嬢様の落ち着いた横顔を見つめ、胸が締めつけられた。今日、もっと上手くやれていれば――。悔いと自責で、喉の奥が熱くなる。
二人の背中が、新田家の前から少しずつ遠ざかっていく。
新田真乃は両親の腕にしがみつき、家へ戻ろうとした。だが三浦亮治の視線だけが、いつまでも二人から離れない。
「亮治兄さん」
新田真乃が声をかけるより早く、三浦亮治が新田水紀の方へ歩き出した。
「待て」
言い方は相変わらず刺々しい。新田水紀の惨めな姿を見て、彼は眉を寄せた。
「車を出してやる」
このまま歩けば足が擦り切れる。見下してはいるが、長年の情が完全に消えたわけじゃない。
「いらない」
新田水紀は振り向きもしない。
三浦亮治は面目を潰され、顔を険しくした。
「……恩知らずが!」
そして新田真乃の手を掴み、屋敷へ戻っていった。
ほどなくして、プライベートジェットが到着した。ローターの轟音があたり一帯の土埃を巻き上げる。
庭にいた新田家の人間たちも、その異様な音に釣られて外へ出た。見物人まで集まってくる。
ここ黒木町はN市でも指折り裕福な町だ。それでも、新田家が自家用ジェットを持てるほどではない。
新田家の面々も、呆然と空を見上げた。
新田真乃は機体の紋章を目にした瞬間、口が開いたまま閉じなかった。
金で縁取られた「萩原」の一文字。
「ママ……まさか、伝説の萩原家……!?」
富は国に匹敵し、財界も政界も頭が上がらない。総理ですら笑顔でへりくだる――そんな噂の萩原家が、最近N市に入って政府案件を進めるらしい、という話まである。
新田真乃の顔色がさっと青ざめた。
「さっき水紀とあの老人が行った方向……ちょうど飛行機が降りた方だよね。もう人影もない……まさか……」
「何言ってるの」
山崎和美が新田真乃の手をぱん、と叩いて落ち着かせる。
「どうせ翼の風で泥に吹き飛ばされたんでしょ」
新田真乃はようやく息をついた。
――あり得ない。たとえ向こうが萩原姓でも、萩原家と繋がるはずがない。
そうして別荘へ戻ろうとしたとき、庭の落ち葉がざわりと舞い、赤い印のついた紙が新田家の前へ落ちた。
新田真乃が好奇心で拾い上げ、「町長聘書」の文字を見た瞬間、目を見開いた。
「ママ……」
手首が震え、聘書を差し出す。
山崎和美は一瞥して鼻で笑った。
「偽物の聘書で新田家を騙す気? 笑わせないで」
そう言って、紙をびりびりに引き裂いた。
「でも……議会の印があるよ? あれは偽造できないんじゃ……」
「貧乏人なんて、何でもするわよ」
山崎和美は肩を撫でる。
「金を騙し取るための小細工よ。町長の聘書なんて、振れば手に入るって思ってるの。萩原姓だからって、自分が萩原家の人間だとでも?」
――
プライベートジェットの機内で、新田水紀は先ほどの光景を反芻していた。制服姿の男たちが丁重に彼女を支え、席まで案内する。胸元には萩原グループのロゴ。
「つまり、あなたは萩原家の老執事?」
老執事は頷いた。
「正一と申します。正一とお呼びください」
新田水紀は窓の外を眺め、しばらくして口を開く。
「一度、降りられる? 徳佑病院に寄りたい」
徳佑病院はN市最高峰の病院だ。最上階にはヘリポートもあるが、新田水紀は派手にしたくなかった。
「おじいさんに会いたいの」
この数年、新田家で本気で彼女を気にかけてくれたのは祖父だけだ。
認知の件は祖父に大きな衝撃を与え、今も意識が戻らない。
徳佑病院のVIP病室。白髪の老人は管に繋がれ、寝息すら苦しそうで――新田水紀の胸はきゅっと締めつけられた。
「来たか」
金藤伊江が、きびきびした白衣姿で立っていた。整った顔立ちは、彼の腕の確かさを霞ませるほどだ。
「おじいちゃんは?」
金藤伊江は重く息を吐いた。
「良くない。心肺機能が落ち続けてる。今は機械で持たせてるが、このまま数値が下がれば……長くない」
新田水紀の喉の奥に酸っぱいものがこみ上げ、どうしても押し込められない。
祖父は、新田水紀の本当の身元を知っても新田家に残そうとした。だが新田中尾と山崎和美は猛反対し、言い争いの最中に祖父は転倒――心筋梗塞を起こした。あと一秒遅ければ命はなかった。
入院しても新田中尾はほとんど見舞いに来ない。来たところで救急室の外に記者を呼び、泣き崩れて“孝行息子”を演じるだけ。
祖父の身体は、新田水紀の薬で辛うじて保たれていた。
「人には寿命がある」
金藤伊江はその顔が見ていられず、自然に手を伸ばして柔らかな髪をくしゃりと撫でた。
「おじい様も何年かは福を享受した。あまり自分を責めるな」
新田水紀は黙っていた。運命は信じない。信じるのは自分だけだ。
リュックを下ろし、金属製の薬箱を取り出して開ける。整然と並んだアンプルが、冷たい白光を返した。
金藤伊江が一本手に取り、目を見張る。
「強心針……?」
出回ったばかりの謎の薬。闇のオークションで一千万円超えが当たり前。一本で瀕死を蘇らせるとも噂される。
薬箱には、六本もある。
「どこで手に入れた……?」
金藤伊江は信じられない顔で言った。
「これは金があっても買えない代物だぞ」
