第4章 命の危機

水紀という存在は、何度も何度も金藤伊江の常識を打ち砕いた。

医家の名門に生まれ、幼い頃から医学に没頭してきた。十六で海外最高峰の医学院へ推薦入学。N市で自分が二番だと名乗れば、誰も一番を名乗れない――金藤伊江はずっと、そう信じて疑わなかった。

水紀に出会うまでは。

金藤伊江でさえ手を焼く難題も、水紀が何気なく二、三言こぼしただけで視界がひらける。糸口が見え、答えが結ばれ、さっきまでの迷いが嘘のように消える。

十代の少女が見せる才気は、天才という言葉で片づけるには鋭すぎた。

金藤伊江は本来、N市に長居する気などなかった。せいぜい一年かそこらで出て、各国を渡り歩きながら診て回る――そのつもりだったのに。

水紀が現れてから、離れがたくなった。

当の水紀は、彼の動揺など意に介さない。視線はずっとベッドの上――祖父の顔から外れない。

「強心針で命は繋げても、病気そのものを治せるわけじゃない」

水紀には分かっていた。祖父は長年、心を砕き、身体を削ってきた。新田家の人間は誰ひとりとして彼を安心させず、積もった無理はとっくに限界を超えている。

元の健康を取り戻すには、別の薬が必要だ。

「方法は探し続ける。おじいちゃんは、しばらくあなたに任せる」

事情は金藤伊江も耳にしている。思わず息を吐いた。

「新田家の連中が、お前の半分でも孝行なら、おじい様はこんなことにはならなかったのにな」

「おじいちゃんには、私がいればいい」

水紀は淡々と言い切り、もう一度だけ祖父を見つめた。

正一が待っている。名残惜しくても、いまは離れるしかない。

病室を出た、その瞬間。

廊下の先で、医師と看護師が慌ただしく駆けていた。険しい顔でストレッチャーを押し、靴音が床を叩く。

横たわっているのは白髪交じりの老人。腹部に銃創。外翻した傷口からは出血の痕が濃く、シーツの赤が広がっている。

水紀は眉を寄せた。創縁がわずかに青い。止血薬は使われているが――。

救急室へ押し込まれそうになり、思わず声が出る。

「外の出血は止まってる。でも内出血が重い。このまま手術に入ったら死ぬよ」

動いていた一団の足が、ぴたりと止まった。

少し離れたところに立つのは十代の少女。落ち着き払った目つき、冷ややかな気配。年齢に似合わない圧に、誰もが一瞬、言葉を失う。

若い医師の白坂祐也が苛立ったように吐き捨てた。

「どこの子だよ。知りもしないのに口出すな!」

言い終えるより早く――ストレッチャーの老人がびくりと痙攣し、口元から血を吐き始めた。

外を無理に止め、内で破綻する。まさにその兆候だった。

周囲が息を呑み、水紀を見る。どうして分かった?

白坂祐也は焦って叫ぶ。

「時間がない! 手術だ!」

水紀は静かに言った。

「大動脈内バルーン遮断。やれば助かるかもしれない」

最年長の医師が、ようやく少女を正面から見た。

大動脈内バルーン遮断――最先端で、複雑で、失敗すれば致命傷になる手技。普通の病院なら名称すらろくに言えない。

前田教授はN市屈指の外科医だが、それでも確信は持てない領域。

――この子が、それを口にする?

白坂祐也がストレッチャーを押し進めようとしたところで、前田教授が手を上げた。白坂祐也の焦りがさらに募る。

「前田教授! 迷ってる暇ないです!」

結局、病床は手術室へ運び込まれた。

手術灯が点くのを見上げ、水紀は小さく肩をすくめる。

――人を殺すのは、病気だけじゃない。

懐から棒付きキャンディを取り出し、踵を返しかけたとき、近くの看護師たちの囁きが耳に入った。

「御堂家のおじい様よ。ここで何かあったら、私たち全員クビだわ」

「大丈夫。前田教授と白坂先生は院内トップだもの」

御堂家――。

キャンディを口の中で転がし、水紀は足を止めた。

姓が御堂で、この騒ぎ。さっきの顔――見覚えがあった。

総理の父親。

そう思った瞬間、手術室の扉が勢いよく開き、白坂祐也が血まみれの手で飛び出してきた。マスク越しでも、焦燥が透けて見える。

「疏通剤を三本! 早く持ってきて!」

忠告を無視して傷を開き、弾丸を取ろうとして大出血――止まらないのだろう。

水紀は冷たく言う。

「疏通剤は時間稼ぎにしかならない。助からない」

「またお前か!」

白坂祐也は看護師に怒鳴りつける。

「突っ立ってないで早く行け!」

水紀は畳みかける。

「利心針でバイタル維持。すぐに大動脈内バルーン遮断で止血。安定してから弾丸を取る。それしかない」

手術室の中から、切羽詰まった声が飛ぶ。

「利心針を!」

御堂老の数値が落ち続けている。前田教授は逡巡していたが、もう賭けるしかない。

利心針が運び込まれ、二本投与。バイタルがかろうじて戻る。

前田教授が急いで手を動かす。だが、何十年の経験があっても手首がわずかに震えていた。

それでも血は止まり、モニターの線が少しずつ持ち直していく。

やがて扉が開き、前田教授が疲弊しきった顔で出てきた。だが、空っぽの廊下を見た瞬間、表情が再び強張る。

「ご家族はまだですか」

看護師が震える声で答えた。

「蓮司様から連絡が……最短の便で向かっているそうです。ただ、今は機内で電話が繋がらなくて……」

「そんなに待てない!」

白坂祐也が叫ぶ。

「止血しても、弾が残れば血管が詰まって壊死する! 結局死にます!」

前田教授も分かっている。

しかし家族の同意なしに手術を進め、万一のことが起きれば御堂家の怒りは計り知れない。

「教授!」

白坂祐也は息を整え、きっぱりと言い放った。

「俺が手術を手伝います。おじい様を助けましょう!」

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