第5章 命を救えるのは彼女だけ

白坂祐也はまだ若いが、徳佑病院きっての外科医として名を上げていた。これまで受けた表彰は数え切れず、称賛も途切れない。

――ただ一つ。

彼を一気に“頂点”へ押し上げる舞台だけが、足りなかった。

今回、御堂おじい様を救えさえすれば、御堂家との縁を得られる。そうなれば将来は約束されたも同然だ。前田教授でさえ、いずれは席を譲ることになるかもしれない。

それに、さきほど御堂おじい様のバイタルは持ち直していた。あとは弾丸を取り出し、縫合するだけ。難手術というほどでもない――はずだった。

前田教授は白坂祐也を見つめ、若さゆえの勇気に胸を打たれる。

だが、脇にいた水紀だけは分かっていた。

こいつの目にあるのは救命の意志ではない。ぎらついた私利私欲だけだ。

疏通剤と利心針の判断すら外す男に任せれば、終わる。

前田教授は数秒、沈思し――やがて首を横に振った。

「おじい様はご高齢だ。弾を摘出するのはリスクが大きい。君に任せるのは……」

白坂祐也が慌てて口を開き、決意を述べようとした瞬間。

ピィィィィ――!

手術室のモニターが、命を刈り取るみたいな警告音を鳴らした。空気が一気に凍りつく。

「心拍数が急降下しています!」

付き添いの若い看護師が駆け出してくる。額には冷や汗が浮いていた。

「血中酸素も、心肺指標も……どんどん下がってます!」

止血できていれば、本来なら十数分は持つ――それが白坂祐也が名乗り出られた理由でもあった。

だが、容体は急変した。

この数値でメスを入れれば、たとえ世界トップ級の名医でも成功率は低い。

今動けば死ぬ。動かなくても死ぬ。

白坂祐也は、反射的に半歩下がった。

――割に合わない。

救えなければ御堂家を敵に回す。得るものがないどころか、人生が終わる。

「前田教授、僕は……」

白坂祐也の顔色が一気に白くなる。唐突に腹を押さえた。

「腹が……痛い……。すみません、今回は……参加できません……」

前田教授は歯噛みする。

「君は……!」

「私がやる」

水紀は食べ終えた棒付きキャンディの棒をゴミ箱に放り込み、ぱんぱんと手を払った。

「リスクは全部、私が負う」

この程度の手術、水紀にとっては易しい。御堂家との縁ができるなら、先々で必ず役に立つ。

「お前が?」

白坂祐也は鼻で笑う。

「ここは手術室だ。ガキの遊び場じゃない!」

水紀は冷えた目で見返した。

「そんなに元気なら、腹……痛くなくなった?」

白坂祐也の顔がひくりと引きつり、慌ててまた腹を押さえ直す。

御堂おじい様の命がさきほど繋がったのは、確かにこの少女の策のおかげだった。前田教授は迷いながらも、白坂祐也が役に立たない以上、助手が必要になる。

「……本当にできるのか」

「失敗しても責任は私」

前田教授は、こんな少女を見たことがなかった。眉間に刻まれた自信が眩しくて、思わず視線が吸い寄せられる。

――信じたくなる。

「相手が誰か分かっているのか」

「御堂おじい様。御堂総理の父親」

前田教授は息を呑む。

「失敗したら、何が起こるかも……」

「他に手がないでしょう」

水紀は淡々と言い、さらに続けた。

「急変した理由は年齢だけじゃない。さっきの大動脈内バルーン遮断、手技が不安定で遅かった。成功したように見えて、実は成功してない」

前田教授の顔が強張った。

確かに、経験不足で手がぶれた。だが、それをこの子が見抜いた――?

「……なら、君と一緒に入ろう」

水紀は動かない。

「信用できる助手が必要」

前田教授は慎重すぎる。完全に信じ切れていないぶん、手が止まり、速度が落ちる。水紀の足を引っ張る。

「俺はお前の助手なんかやらない!」

白坂祐也が即座に叫ぶ。

「考えるまでもない!」

「あなたなんて要らない」

水紀は冷たく切り捨て、前田教授へ言った。

「金藤伊江を助手にする」

「正気かよ!」

白坂祐也の声が裏返る。金藤伊江は徳佑病院でもっとも扱いづらい医師だ。腕と判断で周囲を黙らせ、誰にも媚びない。前田教授ですら簡単には動かせない。

「呼んだか?」

金藤伊江は、すでに病室の中で外の騒ぎを聞いていた。水紀が必要とするなら、躊躇はない。

「全部聞いてたでしょ」

水紀は不機嫌そうに目を細める。

「とぼけないで」

その態度に、周囲が息を呑んだ。

金藤先生にそんな口を利いたら――終わりだ。

だが、誰も予想しなかった。

金藤伊江は怒るどころか、ふっと笑って近づき、信じられないほど柔らかな声で言った。

「お嬢様の仰せのままに」

看護師たちは目を丸くする。金藤伊江の笑顔など、見たことがない。あの端正で冷たい顔が、こんなふうに――。

白坂祐也も愕然とした。

「金藤先生、本気でこいつに付き合うんですか!」

金藤伊江は白坂祐也に一瞥すら寄こさない。すっと横をすり抜け、水紀を連れて更衣へ向かった。

救急室。

御堂おじい様の状態は最悪だった。息はかろうじて繋がっているだけ。前田教授でさえ、軽々しく手を出せない。

水紀は迷いなく、前田教授のメスを取り上げた。

「君!」

止めかけた前田教授は、言葉を失う。

手術室に入った瞬間、水紀の気配がさらに膨れ上がった。逆らうという発想そのものが、すっと消えるほど。

「時間を無駄にしないで」

マスク越しの声はくぐもっているのに、鋼のように揺るがない。

「消毒」

「覆布」

「穿刺針」

「カテーテル、挿入」

金藤伊江との連携は、まるで噛み合った歯車みたいに滑らかだった。前田教授は呆然と立ち尽くす。

――いつの間にか、主治医はこの少女になっている。

動きに無駄がない。手の震えも、迷いも、影すらない。

照明の下、引き締まった横顔。伏せられた睫毛。生死の境でも眉一つ動かさず、メスは正確に、速い。

何度もやってきた手つき――。

前田教授は震えるほど圧倒され、気づけば金藤伊江と並んで助手へ回っていた。

手術室の外。

白坂祐也は洗面所から戻ったふりをして、点きっぱなしの手術灯を見上げる。口元に嘲りが浮かんだ。

御堂おじい様は助からない。なら責任を全部、あの生意気な小娘に被せればいい。病院の体面も守れる。

そのとき、足音がどっと増えた。

白坂祐也が振り向くと、背の高い男が速足で歩いてくる。纏う空気が違う。圧倒的な威圧感。氷みたいな顔に、刃のような眼。

見ただけで、喉が乾いた。

白坂祐也の背筋に冷たいものが走る。

御堂蓮司の低い声が落ちる。周囲の呼吸が、無意識に細くなった。

「状況は」

白坂祐也は数歩で駆け寄り、目を合わせられず俯いたまま答える。

「蓮司様……おじい様は重症で、出血が止まらず……かなり厳しいかと……」

頭上の圧が、さらに重くなる。全身が冷え切り、白坂祐也はその先を言えなかった。

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