第1章
空港ラウンジ。
養父の黒田守が向かいに座り、名残惜しさを滲ませた声で言った。
「理沙、向こうに着いたら……ちゃんと大人しくしてろ。実の親は生活が少し苦しいかもしれないが、お前の血の繋がった家族だ。黒田の家で身についたわがままも、少しは控えなさい」
声は大きくも小さくもない。周囲の客が、はっきり聞き取れる程度――まるで聞かせるための音量だ。
黒田理沙は視線を上げた。澄んだ瞳に映るのは、どこか疲れの滲む養父の顔。
返事はしない。ただ、静かに見つめ返す。
その視線が落ち着かなかったのか、黒田守は目を逸らし、咳払いをして言い添える。
「向こうで足りないものがあったら……その、家に電話しなさい」
黒田美沙子がバッグを探り、画面にひびの入った古い携帯電話を取り出すと、理沙の前のローテーブルに置いた。
「持っていきなさい」
苛立ちを隠そうともしない口調。
「向こうは貧しくてスマホも使えないって聞いたわ。古いけど動くんだから、我慢しなさい」
美沙子は首元のカルティエの限定ネックレスを指先で撫で、理沙の冷えた横顔を視界の端で掠める。胸の奥に渦巻くものが、苦いのか甘いのか自分でも分からない。
二十年もこのクソ女を養ってやった。今日でようやく、送り返せる。
――けれど、この先は。
美沙子は黒田守へ身を寄せ、声をぐっと落としてぼやいた。
「この子がいなくなったら、これから誰が料理するの? あなた、他人の飯で平気?」
黒田守はわずかに身を引き、同じく小声で釘を刺す。
「声が大きい」
「本当のことじゃない」
美沙子は口を尖らせ、それでも止まらない。
「理沙の筑前煮、家にシェフを三人も雇ってるのに、誰もあの味を出せないのよ。ここ数日、他人が作ったの食べてるけど……どうにも物足りない。口の中が薄いの」
言いながら、苛立たしげに眉間へ皺を寄せる。
――あの頃。実の娘の美穂が行方不明になったとき、美沙子は泣きすぎて目が潰れるかと思った。
黒田守が『もうひとり養子を迎えよう。心の支えになる』と言い、正気を失っていた彼女は曖昧に頷いた。
だが、この子が家に来た初日から後悔した。
この顔を見るたび、失った美穂を思い出す。
黒田家は江城一の富豪として二十年。
それなのに美穂は外で生きているかも分からない。黒田理沙という雑種だけが、のうのうと黒田家で暮らしている。――そんな理不尽があってたまるものか。
けれど神様は見捨てなかった。美穂は自分で戻ってきた。
さらに都合よく、理沙の実親まで現れた。
スラム街暮らし、無職で無名、しかも役立たずの弟が三人。毎日遊んでぶらぶら。
思い浮かべるだけで、美沙子の口元には笑みが浮かぶ。
いい。きれいさっぱり送り出せる。
料理の腕が惜しい? ――それくらいだ。
ネックレスに触れた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
美沙子は眉をしかめ、反射的に胸元を押さえる。少しだけ楽になる。
三か月前の大病。命を持っていかれるところだった。
乳がんの末期で、医者は「一か月もたない」と言った。
そのときの理沙は毎日目の前をうろつき、薬がどうだの何だのと、うるさくて仕方がなかった。
だが美穂が帰ってきた。美穂を見た瞬間、病気が半分治った気がした。
さらに奇跡が起きた。病状がなぜか好転し、再検査では医者が顎が外れそうな顔で言った。腫瘍が完全に消えている、医学的奇跡だと。
美沙子には分かっている。神様の憐れみだ。
美穂は神様が授けた贈り物で、自分を救う天使。
養女の理沙が『私の薬が効いた』などと言っていたのは、ただの戯言。
そんな縁起でもないものは、さっさと遠ざけるに限る。
「姉ちゃん……悲しまないで。あんな辺鄙な場所、女の子が帰ったら危ないこともあるかもしれない。だから向こうでは、ちゃんと自分を守って……」
声をかけたのは黒田美穂。黒田家が二十年前に失った実の娘だ。
理沙の隣に座り、手を握る。目元は赤い。
けれど、その瞳の奥にある得意げな光は隠しきれていない。
実親の家は飯も満足に食えず、役立たずの弟が三人。帰ったところで苦労と雑事と暴言が待っている――そう思うと、言いようのない優越感が胸に湧いた。
「でも安心して。私、毎月お小遣いを送るから。多くはないけど、生活の足しにはなるよ。姉妹だもん。苦しませっぱなしは嫌だし」
周囲の視線が集まり、すぐに感嘆の声が上がった。
「なんて優しい子!」
「黒田家は福があるねえ、実の娘さんがこんなに善良で」
理沙は握られた手を見下ろす。指先がひんやり冷たい。
視線を上げ、涙を溜めた美穂の瞳と向き合っても、冷えた眼差しに波は立たない。
すっと手を引き抜き、立ち上がる。
「気持ち悪い」
美穂は固まり、涙が一粒、頬を伝った。
「姉ちゃん、辛いのは分かる。でも私、ちょっと羨ましいの。山も川も綺麗なところで暮らせるなんて。私はここに残って、退屈なパーティーに出て、家の仕事を継いで……それに、姉ちゃんが好きだった婚約者とも、代わりに結婚しなきゃいけないんだよ……」
井口家は江城の名門で、黒田家とは婚約関係があった。
美穂が戻ったことで、その婚約は当然のように彼女へ移った。
理沙の口元が、ごく薄く弧を描く。冬の夜の霜のような笑み。
「そのクズ男、欲しいならどうぞ」
美穂の表情が一瞬固まる。
井口景太。江城・井口家の一人息子で、若く有能、顔もいい。令嬢たちが群がる玉の輿。
婚約がなければ手が届かない相手――その男を「クズ」だと言うのか。
「黒田理沙!」
美沙子が勢いよく立ち上がり、数歩で理沙の前に詰め寄った。
「なんて意地の悪い言い方するの! 美穂がわざわざ送ってやるっていうのに、感謝もしないで皮肉? 二十年育てて、こんな恩知らずにした覚えはないわ!」
理沙は足を止め、振り返る。視線を淡く美沙子に落とした。
唇を少しだけ動かす。
「二十年で、私にいくら使った? 数字、出してあげようか?」
美沙子の顔がこわばる。
理沙はそれ以上見ず、リュックを掴んで歩き出した。
セキュリティチェックゲート。リュックをベルトコンベアに載せた瞬間――赤いランプが点滅した。
けたたましい警報音が、待合の静けさを切り裂く。
警官が二名、早足で近づく。
「お客様、荷物の確認にご協力ください。開封します」
検査員がリュックを開き、内ポケットから密封された小さな袋をいくつか取り出した。
透明の袋に入っているのは、干からびた植物の実。――ケシ殻。
理沙は眉を寄せ、顔を横に向ける。コンベアの向こう、数歩先の美穂を見据えた。
美穂はさっきまでの名残惜しい顔を保っているのに、赤い点滅を見た一瞬、瞳の奥にきらりと走る光があった。
願いが叶った者の光。
理沙はそれを見て、静かに理解した。
――ここで待っていたんだ。
美穂が近づき、震えを混ぜた声で言う。
「姉ちゃん……どうして、こんなものを……」
そして、何かに気づいたように続けた。
「だから……だから、パパとママが、姉ちゃんの料理をあんなに好きだったの……。何年も食べて、ちょっとでも食べないと恋しくなるくらい。姉ちゃん、ずっと料理にこれを入れてたの?」
人混みに押し入ってきた美沙子は、その言葉で立ち尽くした。
この三か月、食事が味気なく感じたこと。さっきまで「筑前煮の味が忘れられない」とこぼしていた自分。
美沙子は理沙を睨みつけ、嫌悪の奥に恐怖を混ぜた目をした。
「私たちに毒を盛ったの?」
黒田守の顔が怒りで青黒くなる。
「理沙……黒田家が二十年育てたのは、こういう報いを受けるためか?」
そのとき、美穂が一歩前に出て美沙子の腕を掴む。声は柔らかい。
「ママ、そんなふうに姉ちゃんを責めないで……。姉ちゃん、ずっとこの家で一人で育って、不安だったのかもしれない。だから、私たちにもっと好きになってほしくて、料理で……」
言いかけて、はっとしたように止める。
「……私が悪い。私が戻ってこなければ、姉ちゃんもこんな危ないこと、しなかったのに……」
善良で、加害者さえ庇う娘。
悪辣で、育ててくれた家に薬を盛る養女。
その対比は刃物のように美沙子の胸を抉った。怒りが煮え立つ。
美沙子は美穂を強く抱き寄せ、振り返って理沙を睨みつける。
「やっぱり! やっぱりあんたは厄介者だ! 毒を盛って依存させる? 人間なの?」
「今日のことは終わらないわよ! 聞きなさい黒田理沙! 黒田家に迷惑をかけるんじゃない! 薬物はあんたの問題! 黒田家とは一切関係ない! 私たちはもう縁を切った! あんたが生きようが死のうが、関係ない!」
