第3章

黒田美沙子はバッグから小切手を一枚抜き取り、黒田理沙の目の前へ差し出した。

「持ちなさい」

小切手に記された金額は、はっきりと――3000万。

「美穂の件、あなたが認めて」

黒田美沙子は黒田理沙を見下ろすように、施しを与える者の余裕を滲ませる。

「どうせあなた、あんな所に戻るんでしょ。認めようが認めまいが、何が変わるの? このお金があれば、残りの人生は困らないわ」

言いながら、ちらりと視線を滑らせる。黒田理沙の隣に立つ、泥だらけの青山拓哉へ。

黒田美沙子は鼻で笑った。

3000万。――こんな落ちぶれた連中にとっては、夢の中でさえ手が届かない数字のはず。

今日ここで叩きつけてやれば、土下座して頭でも下げるだろう。

口元に、得意げな弧が浮かぶ。

「妹は優しいの。あなたに苦労してほしくないんですって」

黒田美沙子の声は、ますます傲慢に磨かれていく。

「受け取りなさい。向こうでちゃんと暮らすのよ。そっちの……あなたのご家族? 3000万もあれば、階層だって一気に上がるでしょう」

黒田理沙は小切手を一度だけ見下ろした。

3000万。

黒田家で二十年。自分に使われた金は、どう多めに見積もっても300万に届かない。

なのに黒田美穂のためとなれば、一度の手当で3000万。

言葉は返さない。けれど、口元がほんの少しだけ持ち上がった。

青山拓哉は彼女の隣で、黒田美沙子をまっすぐ見た。

その話を聞くほどに、眉間がじわりと寄っていく。

3000万で、妹を追い払うつもりか。

あの「恵んでやる」顔を見て、すべて察した。

この二十年、この家は最初から最後まで――妹を、人として扱っていなかったのだ。

出発前、父が言っていた。黒田家へ礼を尽くせ、養ってくれた恩に報いる贈り物を持て、と。

もう要らない。贈る必要など、どこにもない。

青山拓哉は半歩前へ出て、黒田理沙を背に庇う。

「小切手は引っ込めてください」

声音は低い。だが、拒絶は揺るがない。

「俺の妹は、そんな端金で片づけられる存在じゃない」

端金?

黒田美沙子は一瞬、固まった。

手元の小切手を見下ろす。

3000万だ。

それを、端金と言ったのか。

青山拓哉はもう彼女を見ない。黒田理沙へ視線を落とす。

「行こう」

黒田理沙は小さく頷いた。

二人は踵を返し、VIP通路へ向かって歩き出す。

黒田美沙子はその場に立ち尽くし、小切手を握り潰しそうな力で掴んだまま、顔色を青くしたり白くしたりと変えた。

数歩先まで行かれてから、ようやく我に返る。二つの背中を睨みつけ、腹の底で吐き捨てた。

何よ、格好つけて。3000万を断る?

貧乏人のくせに、何を粋がってるのよ。

VIP通路は静かだった。

二人の足音だけが、壁に柔らかく跳ね返る。

青山拓哉が口を開こうとした、その瞬間。スマホがぶるりと震えた。

着信表示を見て、眉がわずかに跳ねる。すぐに出た。

「言え」

向こうの声は切迫し、ほとんど裏返っている。

「青山社長、大変です! スターシップの3号ライン、圧力が急降下! メインシステムが全部、真っ赤です!」

青山拓哉の足が止まった。

「現状は?」

「まだ落ちてます! このままだと、最長でも四十分で第2段燃料タンクが死にます!」

呼吸が、重く沈む。

スターシップ計画は、国家の十年を背負う宇宙プロジェクトだ。今回のウィンドウを逃せば、次は半年後。

スマホの時刻を確認し、通路の先――灯りの点くヘリポートを見た。

ここから基地まで、最短でも一時間半。

間に合わない。

「データを俺に送れ」

青山拓哉は声を絞る。

「移動中に確認する。お前らも――」

言いかけたところで、手が伸びてきた。

黒田理沙が、彼のスマホを取り上げるように受け取り、耳に当てる。

「3号ラインは第2段燃料タンクに接続」

淡々と、温度のない声。

「圧力異常は予熱が過多で、気化が前倒しになってる。第2段の予熱バルブを閉めて。バイパス弁は全開のまま」

電話の向こうが、一秒沈黙した。

次いで、激しいタイピング音。驚きの声が重なる。

「え、待って……データ動いてる! 圧力曲線、水平に……!」

「止まった、止まった! 安定してる!」

声は一気に跳ね上がり、興奮でかすれる。

「なんでその判断が……! 内部で三か月推演しても結論が出なかったのに――」

黒田理沙は答えない。

スマホを青山拓哉に戻した。

青山拓哉は受け取り、彼女を見た。

頭上の照明が、白く落ちる。

その光の中で、彼女の顔は異様なほど静かだった。

「……どうして分かる」

声が低くなる。抑えきれない動揺が滲む。

「スターシップの燃料系は国家機密だ。内部資料ですら揃ってない……お前が知ってるはずがない」

黒田理沙は彼を見返した。

そして、口元だけをわずかに上げる。

「行こう。時間、ないんでしょ」

そう言い置いて、通路の奥へ歩き出す。

青山拓哉はその場に残り、背中を見送った。

――この妹は。

自分が思っていたより、ずっと、ずっと厄介だ。

タラップの先で、機体のドアがゆっくり開いた。

黒田理沙が機内へ入る。

視線が一巡する。革張りのシート、木目の内装、グラスはクリスタル。

それでも表情は変わらない。

当たり前のように腰を下ろし、さらりとシートベルトを締めた。慣れた手つき。家庭の所作のように自然だった。

青山拓哉も続いて入り、向かいに座る。

見れば見るほど、違和感が増していく。

この落ち着き。

この手慣れ。まるで何度も乗ってきたみたいだ。

彼はポケットからベルベットの箱を取り出し、テーブルに置いた。

黒田理沙が一瞥する。

「それ、なに?」

「元々は、あの家に渡すはずだった礼だ」

青山拓哉の声が冷える。

「ただの石。高いもんじゃない。だが、あの態度を見たら――渡す気が失せた」

言いながら、箱を脇へ放るように置いた。

黒田理沙の視線が、一秒だけ箱に留まった。

深い黒のベルベット。口元に押された金のロゴ。スーチウ・オークションの専用パッケージ。

覚えている。あのオークションの目玉も、同じ箱に収められていた。

カリナン。最高級のブルーダイヤ。世界に一粒、3.17カラット。透明度も色も唯一。

落札額は3億2000万。買い手は正体不明だった。

黒田理沙はまつげを落とし、瞳の奥の光を隠す。

顔を横に向け、窓の外を見た。

滑走路がゆっくり後退し、機首が上がり、雲が迫る。

「北へ飛んでる?」

静かな問い。

青山拓哉が一瞬、間の抜けた顔をした。

「……ああ」

「北は京清市」

黒田理沙の声は淡い。

「スラム街って話じゃなかった?」

青山拓哉は彼女を見て、ふっと笑った。

「昔はな。だが地下で鉱脈が見つかって、ちょうど俺たちの案件に当たった。スラムはもう解体済みだ。今は再開発地区」

少し間を置いて、付け足す。

「家は碧海ヴィラだ」

黒田理沙は黙った。

碧海ヴィラ。

国内屈指の高級住宅街。京清市の中心、山と海に抱かれた場所に、一軒家。

黒田守が一生かけても、京清市郊外の別荘すら買えないはずだった。

雲の上。刺すような陽光。

黒田理沙は眩しさに目を細めた。

一時間半後、機体は京清市国際空港へ降りた。

ヘリポートには黒いマイバッハが待機している。ナンバーは五つの0。

運転手が車門の脇に立ち、深く頭を下げていた。

黒田理沙が乗り込む。

青山拓哉は隣に座り、碧海ヴィラへ向かうよう告げようとして――彼女の声が先に落ちた。

「京清市研究所へ」

青山拓哉は口を開きかけ、結局、運転手へ小さく頷いた。

車は空港を出て北へ流れる。

四十分後、研究所の前で止まった。

黒田理沙はドアを押し開け、そのまま迷いなく中へ歩く。

青山拓哉は車内から背中を見つめた。

研究所の門は閉ざされ、警備は厳重だ。入退場には複数の認証が要る。

普通の人間は入れない。研究員でさえコアエリアには容易に踏み込めない。

止めるべきだ――そう思い、声をかけようとした瞬間。

彼女はポケットから何かを取り出し、認証端末へ軽くかざした。

ロックが外れる。

扉が開いた。

警備員が会釈し、通した。

青山拓哉の言葉は、そのまま喉の奥で凍りついた。

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