第4章
研究所の内部。黒田理沙が長い廊下を抜けていくと、人気のない通路にこつ、こつ、と足音が小さく反響した。
角を曲がったところで、白衣を着た若い女性が小走りで駆け寄ってくる。
「黒田先生!」
二十五、六歳といったところか。高い位置でポニーテールを結んだ彼女は、黒田理沙の前で足を止め、息を弾ませた。
「やっと来てくれたんですね! 午前中ずっと待ってたんです!」
黒田理沙は彼女を見た。
「佳純、どうしたの?」
林谷佳純。研究所でもっとも若い研究員。二十三で博士号を取り、二十六で異例の抜擢を受けてメインラボ入りした、所内公認の天才。
けれど黒田理沙の前では、いつもどこか熱狂的なファンの顔になる。
「中央研究所でトラブルです!」
林谷佳純は声を落とした。
「今朝、花村グループが最新の低温遠心分離機を納品してきたんです。新製品で、世界に三台しかないって。……それが、稼働して二時間もしないうちに、システムがアラームを出し始めて」
黒田理沙の歩みが、わずかに止まる。
中央研究所。
研究所の中でも最高レベルの区画で、扱っているのは世界でも指折りに危険な病原体だ。
もしあそこで事故が起きれば、設備の損失では済まない。ウイルスが一度でも外に漏れれば――世界規模の災厄になる。
「今、状況は?」
「膠着状態です」
林谷佳純は横に並び、早口で続けた。
「花村グループの担当者は『こっちの接続インターフェースが老朽化してる』って言い張るし、こっちは『機器の側の不具合だ』って疑ってるし。午前中ずっと言い合いで、誰も譲りません」
一拍置いて、さらに声を絞る。
「それと……もっとまずいことが」
黒田理沙が横目で促す。
「花村茂雄が来てるんです」
黒田理沙の眉が、ほんのわずか跳ねた。
花村茂雄。花村グループ社長・花村尚希の叔父で、花村医療技術セグメントの責任者。
花村グループがバイオ医薬分野へ食い込めたのは、半分は彼の手腕だ――そう噂される人物でもある。
今回の機器は花村医療の今年の目玉。花村茂雄が自ら立ち会い、朝から研究室に入り込んでいた。
「それで?」
「機器が異常を起こした時、研究室は緊急退避しました。花村茂雄は最後のほうに出てきて……出てから一時間もしないうちに、微熱が出たそうです」
林谷佳純の声が沈む。
「今は意識がなくて、隔離エリアで処置中です」
黒田理沙は足を止めた。
ただの安全事故ではない。二つの巨大組織を正面衝突させかねない政治案件だ。
花村グループは研究所最大のスポンサーで、毎年、桁違いの資金を投じている。
もし花村茂雄がここで――。
黒田理沙はそれ以上を考えないまま、前へ進んだ。
廊下の突き当たりに、分厚い気密ドア。赤い警告灯が点滅している。
黒田理沙はポケットから黒いカードを取り出し、リーダーへ軽く滑らせた。
ピッ。
赤が緑へ変わる。
林谷佳純はそのカードを見て、思わず舌打ちに似た息を漏らした。
最高権限カード。
研究所全体で、所持者は五名だけ。その一人が黒田理沙だ。
気密ドアがゆっくり開く。消毒液の匂いを含んだ空気が、ふわりと押し寄せた。
黒田理沙が一歩踏み込んだ瞬間、奥から怒鳴り合いが聞こえてくる。
「それ、どういう意味だ? 花村さんが自分で自分を隔離エリアに放り込んだとでも言う気か! うちが毎年いくら投資してると思ってる。これが礼のつもりか!」
スーツ姿の中年男が顔を真っ赤にし、ネクタイは斜め。体裁など投げ捨てた形相だ。
向かいの研究員が机を叩き返す。
「故障が出たら原因究明が先だろ! 責任の押し付け合いしかできないのか! 花村さんが昏睡だぞ。そっちは焦らないのか、こっちは焦ってる! ここはこっちの研究室だ!」
「押し付けだと? そもそもお前ら――」
「そこまで」
入口から、冷えた声。
全員が動きを止め、いっせいに振り向いた。
黒田理沙が立っている。淡い視線が室内を掃く。
スーツの男が彼女を上から下まで値踏みし、若い上に見知らぬ顔だと分かると、露骨な軽蔑をにじませた。
「誰だ、あんた。ここは口を挟める場所じゃないだろ」
黒田理沙は取り合わない。
そのまま部屋へ入り、壁に設置された巨大な監視モニターへ目をやった。
隔離エリア内のリアルタイムデータが流れ、数字がやけに生々しい。
彼女は淡々と問う。
「花村茂雄の心拍は?」
机を叩いていた研究員が、反射で答えた。
「137。まだ上がってます」
黒田理沙はモニターを二秒だけ見つめる。
「これ以上待てば、間に合わない」
言い終えるより早く、廊下から慌ただしい足音が迫った。
「どいて! みんな、どいて――!」
若い女性が飛び込んでくる。目の縁が赤く、腫れそうなほどだ。
入口に立つ人間を乱暴に押しのけ、数歩でモニター前へ。跳ねる数字を見た瞬間、顔色が紙のように白くなった。
「父は? お父さんはどこ!?」
花村雪乃。花村茂雄の一人娘で、幼い頃から掌の上で大事にされてきた。
彼女は院長をきっと睨みつける。
「何を突っ立ってるの! 助けて!」
院長は額に汗をにじませ、声を絞った。
「花村さん、落ち着いてください。あなたのお父様が感染したウイルスは特殊で、安易に薬剤投与はできません。すでに総局へ連絡しており、上級顧問が京清市に滞在中です。到着次第、治療方針を協議して――」
「待つの?」
花村雪乃の声が鋭く跳ね上がる。
「父が死んでから待つって? 花村グループが毎年いくら出してると思ってるの。事故が起きたら、その態度?」
眼は真っ赤なのに、言葉だけが切っ先みたいに冷たい。
「言っておくけど、従兄はもう向かってる。父がここで死んだら……覚悟して」
従兄。
その二文字が水面に落ちた石のように、部屋の空気を一気に沈ませた。
花村グループ社長、花村尚希。
世界屈指の富豪。ビジネス界の閻魔大王。
名を聞くだけで背筋が冷える。
院長の顔色がめまぐるしく変わる。
スーツの男は目を光らせ、腰を伸ばした。
「お嬢様の仰る通りです! 花村さんに何かあったら、あなた方に責任が取れますか!」
さっきまで強気だった研究員たちが、今度は揃って視線を落とし、息を潜めた。
花村雪乃は全員を見下ろすように見回す。
「口喧嘩はどうでもいい。今すぐ、今この場で、父に薬を入れて」
院長が苦しげに言う。
「しかし花村さん、ウイルスサンプルの培養がまだで……ここで投薬はリスクが――」
花村雪乃が冷笑した。
「そっちの機器トラブルで父が感染したんでしょう。今さらリスク? 放っておいたら取り返しがつかなくなる!」
その時、また冷たい声が落ちる。
「彼女の言う通り」
全員が息を呑み、視線が黒田理沙へ集まった。
花村雪乃が目を細め、見知らぬ若い女を値踏みする。
「あなた、誰?」
黒田理沙は彼女を見ない。モニターに視線を据えたまま言う。
「HSV-1型ウイルスの変異株。潜伏期が短い。すでに髄膜炎の初期所見が出てる。ここで待てば、助かっても不可逆の脳障害が残る可能性が高い」
沈黙が落ちた。
院長が固まり、研究員たちも言葉を失う。
HSV-1型の変異株? 髄膜炎の初期所見?
誰もが「特殊だ」としか言えず、培養結果が出る前に断定することなどできない。まして、データを一瞥しただけで。
花村雪乃は眉を寄せ、院長へ向き直る。声に露骨な詰問が混じった。
「研究所って、誰でも入れるの? 分際もわきまえない人間が、私の前で偉そうに口を出して」
研究員たちが目配せを交わし、年嵩の男が前に出る。
「お嬢ちゃん、気持ちはありがたいが、君の出る幕じゃない。花村社長の身内だ、投薬は慎重にやる必要がある。外で待ってな。総局の上級顧問が来れば話はまとまる」
「そうそう」
別の研究員も頷く。
「その人は生物分野の天才だ。到着すれば全部片が付く。余計なことはしないで」
