第5章

花村雪乃は、引き下がろうとしなかった。

彼女は目の前を塞いだ研究員を乱暴に押しのけ、隔離室の方へ一直線に突っ込む。

「どきなさい! あんたたちが治せないなら、私が父を連れて帰って治す! 花村グループには専属の医療チームがいるのよ。こんなボロ研究所より百倍マシ!」

院長の顔色がさっと変わり、数歩で追いすがる。

「花村さん、あなたのお父様は今、移動できる状態では――」

「触るな!」

花村雪乃は院長を突き飛ばし、そのまま隔離室のドアノブに手をかけた。

「入らないで」

花村雪乃が勢いよく振り返ると、三歩後ろに黒田理沙が立っていた。感情の揺れを見せない目で、ただ静かにこちらを見ている。

「あなたのお父様が感染したウイルスは、空気感染率が通常のインフルエンザの三倍。今ここで扉を開ければ、二時間もしないうちに研究所全体が汚染区域になる。三日以内に、京清市の半分が巻き込まれる。あなたは、お父様を災厄の発火点にしたいの?」

花村雪乃の表情が一瞬だけ歪む。だがすぐ、見下ろすような高慢さを貼り直した。

「大げさに脅すんじゃないわよ! どこの馬の骨かも分からない小娘が、分かったふりして。何を知ってるの?」

「……彼女の言う通りです」

背後から、震える声が落ちた。

顔面蒼白の研究員が黒田理沙を凝視する。

「空気感染率が三倍……それは、三年前にうちの研究所にいた“謎の顧問”が書いた内容です。内部ジャーナルにしか載せていない。外部には一切出していないはず……どうして知ってるんです?」

室内が、すっと静まり返る。視線が一斉に黒田理沙へ集まった。

花村雪乃は一拍遅れて、鼻で笑う。

「なに? 論文を何本か盗み読みした程度で、ここで偉そうに口を挟むわけ? 私、子どもの頃から父の研究室に出入りしてるのよ。見てきた症例の数なら、あんたが食べた米の数より多い。研究室の扉がどっちに開くかも知らないような女が、私を止める資格ある?」

一歩、距離を詰める。

「どいて」

黒田理沙は動かなかった。

盛んに威圧してくる眼差しを受け止め、口元だけ、ほんのわずかに弧を描く。

薄すぎて、笑みと呼べるかも怪しい。なのに、なぜか背筋が冷える。

「……何がおかしいの?」花村雪乃が眉をひそめた。

黒田理沙は答えず、年嵩の研究員へ視線を移す。

「三年前の内部論文。47ページ。変異株の治療案。付録に抑制剤の記載がある。体重比で用量を算出して静脈投与。十分快以内に心拍は落ちて、SpO2は戻る」

研究員の瞳がきゅっと縮んだ。

「あれは理論上の推算で……臨床で検証されたことは――」

「今、検証する」

花村雪乃がぽかんとし、すぐに嘲るように息を吐く。

「よくもまあ、そんなもっともらしい作り話を。次は『私が開発しました』って言うつもり?」

彼女は院長へ向き直り、苛立ちを隠さず吐き捨てた。

「ねえ、いつまでこの女の戯言を聞いてるの? 父に何かあったら、責任取れるの?」

院長の額には汗がびっしょり浮いていた。モニターに踊る数値を見て、次に黒田理沙の異様に落ち着いた顔を見る。頭の中は泥沼だ。

言っていることは筋が通っている。だが――。

この少女は、誰だ?

見たことがない。所内のコアメンバーの顔と名前は暗唱できる。ここに、この顔はない。

顧問も全員把握している。最年少でも四十代半ばだ。こんな若いはずがない。

研究員が口を開きかけた、その瞬間。

黒田理沙が先に言葉を落とした。

「父親の研究室に出入りして、何年も何年も見てきて……学んだのが、その程度?」

声は淡い。刃のように、余計な熱がない。

「発症直後に考えるべきは救命。責任転嫁じゃない。隔離室を開けるな、そんな常識すらない。お父様は中で生死の境を彷徨ってるのに、あなたがここで浪費してる時間だけで――私は三回、救い戻せる」

「……っ!」

花村雪乃の顔が青くなり、白くなり、怒りに歪む。彼女は入口の警備員二人へ振り向いた。

「この女を叩き出しなさい!」

警備員が顔を見合わせ、一歩踏み出そうとした――

「待って!」

林谷佳純が一歩で黒田理沙の前に割り込み、両腕を広げて庇う。怒りで声が震えていた。

「手を出さないで! この人は、私の師匠よ!」

監視室が、一瞬だけ凍りつく。

全員の視線が、林谷佳純と黒田理沙の間を行き来した。

林谷佳純は研究所最年少の研究員。二十三歳で博士号を取った天才で、普段は人に頭を下げない。その彼女に師匠? しかも自分より若く見える女?

年嵩の研究員が真っ先に我に返り、一歩前へ出る。

「林谷さんの言う通りです。今は追い出す話じゃない。命が最優先だ」

黒田理沙は林谷佳純を一瞥し、口元の弧をほんの少しだけ深くした。

そして踵を返し、操作台へ向かう。

花村雪乃の顔色が変わる。

「何する気!?」

黒田理沙は相手にせず、操作台に手を置いた。長い指がキーボードを叩く。カタカタカタ、と乾いた音が加速する。

画面には複雑なコードが次々と立ち上がり、データが滝のように流れ落ちていく。

花村雪乃が止めに飛びかかろうとするが、林谷佳純が必死に体で塞いだ。

黒田理沙は振り向きもせず、淡々と言う。

「花村茂雄の頭蓋内圧は、もう130。これ以上引き延ばしたら、神様でも助けられない」

画面に指令が打ち込まれ、隔離室内の機械アームがゆっくり起動する。花村茂雄のもとへ、寸分違わず滑るように寄っていく。

採血、検査、調剤。

一連の流れは淀みなく、速すぎて目が追いつかない。

花村雪乃は呆然と見つめ、やがて我に返ったように金切り声を上げた。

「やめなさい! どこの誰かも分からない小娘が、私の父に触るなんて! 父に何かあったら、研究所ごと潰してやる!」

言い終える前後、外から足音が押し寄せてきた。

「総局の人が来ました!」

灰色のスーツを着た男が早足で入ってくる。三十代前半。金縁眼鏡の奥に理知的な光を宿し、どこか品のある佇まいだ。

院長の目がぱっと輝く。駆け寄った。

「川村さん! やっと……!」

川村彰人。総局最年少の特級研究員。生物医薬の第一人者で、国際トップジャーナルに二十本以上。誰もが認める“大物”。

花村雪乃の目も一気に明るくなる。

もちろん知っている。去年の花村医療の新年会で、彼女はこの男に自ら杯を捧げた。父ですら丁重に接していた相手だ。

彼がいれば、抗体だって――。

花村雪乃は前を塞ぐ人間を押しのけ、笑顔を作って駆け寄る。

「川村さん、お待ちしておりました! 父が――」

言葉が、途中で止まった。

川村彰人は彼女を見ていない。

視線は花村雪乃を越え、操作台の前に立つ、ひとつの冷えた背中へまっすぐ刺さっていた。

そして次の瞬間、川村彰人の目がきらりと輝く。崇拝に近い、推しを見つけた光。

「……ボス?」

彼は三歩を二歩で詰め、抑えきれない興奮を滲ませる。

「ボス、あなたなんですか! どうしてここに!?」

監視室が、針が落ちても聞こえそうなほど静まり返った。

ボス?

院長は口を開けたまま固まる。研究員たちは目を疑う。花村雪乃の表情は、言葉にできないほど歪んだ。

黒田理沙は振り向かない。指先はなおも止まらない。

「無駄口。手、動かして」

「了解!」

川村彰人は即座に袖をまくり、操作台へ飛び込む。

「ボス、ご指示を! どこでも打ちます!」

「HSV-047抑制剤。体重比で用量算出、静脈投与」

「はい!」

川村彰人の指が走る。先ほどの研究員たちを束ねても及ばないほどの手際で、コードと指令を叩き込んでいく。

監視室は、水を打ったように静かだった。

総局最年少の特級研究員。生物医薬の大物。

その男が今、若い女の隣で、弟子のように従順に動いている。彼女が言えば、その通りにやる。余計な一言すらない。

花村雪乃は唇を動かしたが、声にならなかった。

黒田理沙が上体を起こし、淡い声で告げる。

「中央室の扉を閉めて。全員、出て」

川村彰人は即答した。

「はい」

そして室内を振り返り、呆けたままの面々に鋭く言い放つ。

「聞こえましたよね。全員、外へ」

院長は何か言いかけて口を開いたが、川村彰人の視線ひとつで押し黙り、慌てて踵を返した。研究員たちも我先にと続く。

花村雪乃だけが、その場に杭を打たれたように立ち尽くしていた。動けないまま。

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