第6章
花村雪乃は中央室から押し出され、背後で気密ドアが轟音とともに閉ざされた。
扉の前に立ち尽くし、固く閉まったそれを見つめる。顔に貼りついていた空白が、じわじわと怒りへ塗り替わっていった。
「……どういうつもり?」
雪乃は勢いよく振り返り、川村彰人の背中――扉の向こうへ消えた影を睨みつける。
「川村さん、あの女に洗脳でもされたの? なんで言いなりなのよ!」
返事はない。
雪乃は数歩で院長の前へ詰め寄り、金切り声を上げた。
「目、ついてる? 今の見てたでしょ! 川村彰人が、あの女をボスって呼んだのよ? あいつ、何様のつもり!」
院長が口を開きかけた瞬間、雪乃が乱暴に押しのける。
視線は研究員たちへ、さらに壁際で縮こまるスーツ姿の男へ飛んだ。目尻は赤いのに、声だけが小刻みに震える。
「分からないの? あの女、絶対何かを使って川村さんを操ってるのよ! じゃなきゃ、あんな従順になるはずない!」
スーツの男の顔色が、青くなったり赤くなったりと忙しく変わる。
さっきの川村彰人の態度――黒田理沙に向けた、わざとらしいほどの恭しさ。思い出すだけで喉の奥がひゅっと鳴った。
花村さんの言う通りだ。川村彰人は総局特級研究員。生物医薬の世界じゃ名の通った大物で、普段なら誰だって頭を下げる相手だ。
それが、得体の知れない若い女に……。
――関係が、普通じゃないのでは。
「……狂ってる」
男は呟き、額に冷や汗を滲ませる。
「みんな頭がおかしくなったんだ! あれは中央室だぞ! 中のウイルスが何かも分かってないのに、平然と入って……! なにかあったら誰が責任取るんだ!」
男は院長を睨み、抑えきれない恐怖を声に混ぜた。
「花村さんが中で死んだら、研究所の人間、誰一人逃げられませんよ! 花村社長がどんな人か知らないんですか! ビジネス界の閻魔大王って呼ばれてるのは伊達じゃない! そのおじさんがここで死んだら……自分の末路、想像してみてください!」
院長の顔から血の気が引いた。
花村尚希。
その名は刃物のように胸へ刺さる。
去年、花村グループに楯突いた企業が三日で破産整理。社長は飛び降りた。
一昨年だって、京清市の案件がひとつ転べば、花村尚希の一言でチームごと業界から消された。
もしここで、あの男が怒りを爆発させたら――。
「……勝手なこと言わないで!」
雪乃は声を震わせながら叫ぶ。目は真っ赤だった。
「従兄はもう来てるの! 着いたら分かるわよ、あの女がどうなるか! 従兄が一言言えば、あいつなんてこの業界から消えるんだから!」
そう言って気密ドアへ突進しようとした瞬間、林谷佳純が一歩前に出て、両腕を広げて道を塞いだ。
雪乃が睨みつける。
「……死にたいの?」
佳純の目元も赤い。それでも背筋は真っ直ぐだった。
「師匠が今、懸命に処置にあたっています。誰も邪魔させません」
雪乃は鼻で笑う。
「師匠? 何それ。あいつが私の父を殺したら、あなたが責任取れるの? 従兄が誰か分かってる? あの人が一言言えば、この研究所だって潰せるのよ!」
佳純は一歩も退かない。
「師匠は、そんなことしません。師匠の実力は、私が一番知ってます」
雪乃が一瞬、言葉を失った。
恐慌しかけていた研究員たちも、同じように固まる。若い顔の、その妙に揺るがない確信。胸のどこかがざわつく――だが、その感覚はすぐ別の名前に押し潰された。
「……花村尚希が、来るんだ」
若手研究員が呟く。顔は紙のように白い。
花村尚希。その名は、どんな脅しより背筋を凍らせた。
スーツの男の表情はさらに険しくなる。固く閉じた気密ドアを見つめ、声がかすれる。
「社長が本気で怒ったら……ここにいる全員、ひとり残らず無事じゃ済みませんよ……」
中央室内。
黒田理沙は操作台の前に立ち、長い指をキーボードへ叩き込んでいた。速すぎて、指先の残像が見えるほど。
川村彰人はその隣に立ち、息をするのも忘れたように見守る。
モニターにはデータが滝のように流れ落ちる。
隔離室では、機械アームが寸分の狂いもなく駆動している、採血、検査、調剤、注射――すべてが滑らかで、背筋が寒くなるほどだった。
川村の視線は、あの手に吸い寄せられる。
白く細い手。だが今は、あり得ない速度で跳ね、あり得ない精度で着地していく。八年間、総局で数え切れない専門家を見てきた。だが、操作そのものをここまで「支配」できる人間はいなかった。
画面上で、花村茂雄のバイタルがじわじわと持ち直していく。
川村の胸を、言葉にならない衝撃が満たした。
HSVの研究に八年を注いできた。けれど、さっき外で数値を見たとき、頭に浮かんだのは一つだけだった。――もう間に合わない。
脳損傷の前兆が出ている。常套手段では追いつけない。
それを、ボスは数分でひっくり返した。
黒田理沙が顔をわずかに向ける。
「3号管、見て」
川村は弾かれたように別の操作台へ移り、モニターへ噛みつく。
視界の端で、ボスは再びキーボードへ落ちる。速い。揺れない。狂いがない。
川村は思う。
――この手技。俺が十年鍛えても、届かない。
中央室の外は、緊張が濃くなっていった。
花村雪乃はガラス窓に張りつき、両手でバンバンと叩く。耳障りな音が廊下に跳ね返る。
黒田理沙は相手にしない。指は淡々と跳び続ける。
「耳、聞こえないの!?」
雪乃の声が裏返る。震えるほどの怒り。
「父に何かあったら、あんた土下座よ! 私の前で頭を擦りつけて謝りなさい! 一生這い上がれなくしてやる! 従兄は絶対に許さない、絶対に……生き地獄を味わわせるから!」
背後のスーツの男も必死に追従する。
「お嬢様の仰る通りです! こんな好き勝手させていいわけがない! 花村さんが中で亡くなったら、誰も責任なんて取れません!」
林谷佳純の後ろにいた研究員たちも、顔色が変わり始める。
気密ドア。雪乃の歪みかけた表情。
そして、花村尚希という名。
その名は岩のように、全員の胸へ重く沈んだ。
突然、誰かが息を呑む声を漏らした。
全員が同時にガラス窓へ顔を向ける。
中央室で黒田理沙は変わらず操作台に立ち、手は動いたまま。だが視線だけが、別の方向へ――故障した低温遠心分離機へ向いていた。
「……何してる?」
誰かが呟く。
次の瞬間、全員が目撃した。
黒田理沙はキーボードを叩きながら、何事か口にする。
川村彰人が即座に頷き、遠心分離機の前へ駆けて屈み込み、点検を始めた。
治療操作を継続しながら、修理の指示。
同時進行。
監視室が、ふっと静まり返る。
「……嘘だろ」
若手研究員が目を見開く。
「二つのことを同時に? 試薬の調整しながら、点検の指示も……?」
「見てください!」
別の研究員が画面を指し、声が震える。
「入力、止まってない! 指令が流れ続けてる……どうやってるんだよ!」
試薬の調整は、ほんの僅かなズレで全てが破綻する。
さらに、あの機器の点検は難易度が高い。花村医療の製品で内部構造が複雑すぎて、専門の彼らですら頭を抱える代物だ。
それを――同時に。
スーツの男は唾を飲み込み、喉の渇きを覚えた。ガラスの向こうにある、冷えた背中。その存在が急に現実味を帯びて怖い。
花村雪乃も、わずかに固まった。
だが次の瞬間、驚きはより濃い嘲笑へ塗り替えられる。
「何を騒いでるの?」
雪乃が冷たく笑う。
「簡単じゃない。川村さんが指示してるのよ。あの女が分かるわけないでしょ? 適当にキー叩いてるだけ。実際に動かしてるのは川村さん!」
そして窓へ顔を寄せ、声をさらに尖らせた。
「必死に取り繕ってなさいよ! 従兄が来たら終わりなんだから! 一言で、あんたをこの業界から消してやる! 土下座して頭をぶつけて謝りなさい!」
言い終えた、その直後。
廊下の突き当たりから、足音がした。
軽い。だが、均一で、揺るがない。
一歩、一歩が、まるで全員の心臓を踏むみたいに重い。
誰もが硬直した。
振り返れる者はいない。
息をすることすら、許されない空気。
足音は近づく。ゆっくり、確実に。廊下の温度が下がっていく。
突き当たりに――男が現れた。
黒のロングコート。歩みに合わせて裾が静かに揺れる。
背は高く、体幹は真っ直ぐ。長く上に立ってきた者だけが纏う圧が、何も言わずに場を支配した。
その目は人々を飛び越え、ガラス窓の向こう――黒田理沙の冷たい背へ落ちる。そこに感情の揺れはない。
廊下は針が落ちても聞こえるほど静かだった。
花村尚希。
世界一の富豪。ビジネス界の閻魔大王。
――来た。
