第1章
リーア視点
喉の奥に残る鉄臭さが、やけに生々しかった。
私は勢いよく目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、改造パーツが山積みになった自室の天井。
壁のカレンダーは、あの日付で止まっていた。部族連合の婚姻日だ。
最悪だ。転生してる。
そして今日が、マヤが黒月狼群へ送り出される日だ。
――
外から、堪えるようなすすり泣きが聞こえた。
私は寝室の扉を蹴り開ける。
リビングのソファに、マヤが座っていた。手の中で政略結婚の通知書を握りつぶすようにして、涙が紙面にぽたぽた落ちている。
前世――この優しい義姉は、西部の黒月狼群のアルファ、ゼインに嫁いだ。
冷酷で情のない男。その傍らにはシエナという「妹」。あれがまた、泣いて被害者ぶって周囲を操るタイプで、マヤは幽霊みたいに削られていった。
刻印も、愛も、地位もないまま、氷のような部族で孤独に死んだ。
一方の私は鉄紗狼群へ。アルファはケイル。
互いに好みじゃなくて、あっさり破綻。マヤが死んだあと黒月に殴り込み、シエナに復讐しようとして――取り巻きに引き裂かれて終わり。
今世は、誰にも同じ道を踏ませない。
「泣くな」
私は近づき、通知書をむしり取る。
「お前は行かない」
マヤが目を見開く。
「リーア? でも長老会が――」
「私が行く」
紙を真っ二つに破り捨てる。
「お前は東部に残って、ケイルと結婚しろ」
「正気じゃない!」
マヤは跳ね起きた。
「私は養女よ。これは私の責任! あなたはお母さんの実の娘で――」
「だからこそ、だ」
私は遮って、まっすぐ見据える。
「姉ちゃんを、死にに行かせるわけにいかない」
「でもゼインは――」
「知ってる。西部一冷酷なアルファ。しかも横に、泣いて媚びて同情買う雌犬を飼ってる」
私は鼻で笑った。
「姉ちゃんじゃ、ああいう女には勝てない。優しすぎるから。でも私は――人を裂くのが得意だ」
マヤが私の手首を掴む。声が震えていた。
「リーア、行っちゃだめ! ケイルは……いいアルファよ。優しくて、気遣いもできて……あなたが嫁ぐべきなのに――」
「やめとけ」
私は手を振り払う。
「私とあの小難しいインテリ? あいつはおとなしいオメガが好き。私はエンジンを分解するのが好き。くっついたら互いに地獄だ」
「でも――」
「『でも』は禁止」
私は言い切る。
「マヤ。お前とケイル、両想いだろ」
マヤの顔から血の気が引いた。
「部族のために一生押し殺して、あいつは私と結婚しても懐中時計にお前の名前彫ってた。二人とも、救いようのないバカだ。今世はやめろ」
涙が堰を切って溢れる。
「婚約書には『モリガン家の娘を一人、黒月へ』って書いてあるだけ。誰とは書いてない」
私は旅行鞄を掴む。
「私が黒月へ行く。お前は残って、ケイルとちゃんと生きろ」
しばらく沈黙したあと、マヤは首元からネックレスを外した。
亡くなった実の両親の形見――銀の月のペンダント。
「これを持って」
震える手で私の掌に押し込む。
「月神の祝福が刻まれてる。お守りなの……リーア、お願い。生きて帰って。婚約なんて破っていい、せめて生きて……」
喉がきゅっと締まった。
「……泣くなって。私が死ぬみたいな顔すんな」
私はペンダントを首にかけ、肩を叩く。
「死にに行くんじゃない。裂きに行くんだ。あの雌犬が手出したら、まず私が裂く」
マヤが泣き笑いで抱きついてきた。
「……ありがとう、妹」
私は鞄を掴み、振り返らずに家を出た。
――
三日後。
改造バイク〈夜魘〉で荒野のハイウェイをぶっ飛ばしていた。
メーターは120。エンジンの咆哮が鼓膜を殴る。
バックミラーから東部の森が消え、西部の荒涼とした岩と砂の世界に変わっていく。
二日目の夕方、うなじに激痛が走った。
母が、無理やり私を呼び戻そうとしている。
「母さん……やめろ。逼迫すんな」
私は歯を食いしばる。
『リーア・モリガン! 今すぐ引き返しなさい!』
脳内に雷鳴みたいな声が落ちる。
『正気なの? 婚約をすり替えるなんて! ゼインに引き裂かれるわよ!』
「引き裂かれてもいい。マヤが潰されるのは二度と見ない!」
『このバカ娘! 私はケイルを選んだのよ! なんでわざわざあんな地獄へ――』
「行くって言ってんだ!」
私は怒鳴り返す。
「母さん、安心しろ! 私はマヤじゃない。誰にも踏みつけられない!」
迷いなく心霊リンクを遮断した。
痛みが波のように押し寄せ、そして一気に引く。
ごめん、母さん。でも今世は従順な娘をやめる。
――
三日目の夜。
黒月領まで残り30マイルというところで、ヘッドライトが三つの影を浮かび上がらせた。
流れ者の狼人。
ボロ布みたいな服。飢えた目。
腐臭と暴力の臭いが、風に混じって刺さる。
私は減速しない。
連中は散って包囲した。ひとりが牙を剥く。
「お嬢ちゃん、一人でバイクは危ねぇぜ」
「どけ」
「どけ? 通行料ってのが――」
伸びてきた手。
私はそのままスロットルを捻った。
後輪が膝をへし折る。骨が砕ける乾いた音が、妙に心地いい。
跳ぶ。着地。半獣化。
銀色の爪が、月光を弾いて伸びる。
「言ったよな。――どけ」
奴らが襲いかかる。
五分後、二体の死体が血溜まりに沈み、三体目は折れた脚を引きずって森へ消えた。
私はその場で荒く息を吐く。
肩に骨まで見える爪痕。肋骨も一本逝ってる。息をするたび刃物で切られるみたいだ。
革ジャンはズタズタ。髪は血と泥で絡まり、手首の包帯は真っ赤に染まって滴っている。
最悪なのは――戦闘の最中にあの雑魚どものフェロモンが皮膚に染みついたことだ。
混ざり合った汚い臭いが、どう擦っても落ちない。
マヤなら、ここで気絶してた。だから東部に残すべきだった。ケイルみたいな男に大事にされて。
私は?
血とオイルと他人の臭いを纏ったまま、西部最強の狼王に会いに行く。
……第一印象、最悪だな。リーア。
私は再びバイクに跨り、血溜まりをタイヤで踏み潰して、黒月へ向かった。
――
荒野の果てに、黒月狼群の門がそびえていた。
守衛が私を見て固まる。
破れた革ジャン。血肉の見える肩。汚血にまみれた長い髪。滴る包帯。
そして何より――
私の身体に、見知らぬ狼人二人分のフェロモンが残っている。
狼人社会では、最悪の暗示になり得る臭いだ。
私の狼がざわつく。警戒と敵意。近づくものは裂く。
新しい縄張り。知らない群れ。敵視されるのが当然。
上等。かかってこい。
血を拭っていると、階段の上から甲高い声が降ってきた。
「ゼイン! なにこの臭い、ひどい!」
小柄で肉感的なオメガが、わざとらしく鼻をつまんで出てくる。
「血の臭い、汗の臭い……それに――他の狼の臭い! 一人じゃない! まさか道中で流れ者に……汚されたの?」
私は顔を上げた。
