第2章

レイア視点

 ――シエナ。あの雌犬だ。

 彼女は隣の大男にぴったり寄り添っている。私の臭いを遮れるとでも思っているみたいに。

 その男を一瞥する。

 広い肩、締まった腰。鋭い顔立ち。

 暗い金色の瞳には、隠しもしない危険と暴虐が宿っていた。今にも噛みつく獣そのもの。

 これがゼイン。黒月狼群のアルファ。西部一冷酷な狼王。

 前世でマヤを窒息させ続けた男。

 私はバイクから降り、鞄を掴んで階段へ向かう。

「レイア・モリガン。東部狼群から来た」

 彼の前で足を止め、金色の瞳を見上げる。

「あんたがゼイン?」

 シエナが即座に割り込む。

「ちょっと待って。東部の花嫁は護衛に送られてくるんじゃないの? モリガン家って護衛すら出せないほど落ちぶれたの?」

 ハンカチで口元を押さえ、目を細める。

「それに……その臭い。そんな状態で結婚式なんてできるの?」

 周囲の守衛がひそひそと囁く。「ふしだら」「恥さらし」――そんな単語が耳に刺さった。

「その通りだ」

 私はゆっくりゼインへ近づく。

 彼は微動だにせず、冷たく私を見据えたまま。

 三歩手前で止まり、私は顎を上げる。

「確かに臭い。私に手ぇ出そうとした流れ者を二匹、裂いた直後だからな」

 両手を上げ、爪の隙間に残る血肉を見せつける。

「で、この臭いは――戦利品だ。喉も背骨も、逃がしてない」

 そしてシエナへ向き直り、犬歯についた血をゆっくり舐め取る。

「『汚された』? お嬢ちゃん、言いがかりつける前に、戦闘痕と刻印の違いくらい嗅ぎ分けろ。お前が嗅いだのは、喉を裂いたときに浴びた血だ。わかったか?」

 シエナの顔色がさっと青ざめた。

 反論の隙も与えず、私はゼインへ戻る。

 血で汚れた婚約書をポケットから取り出し、彼の胸に叩きつけた。

「契約はここ。必要な署名は全部してある」

 口角を危険に吊り上げる。

「で――どこで洗える? 血の臭いで式を台無しにしたくない」

 ゼインは私を見つめる。

 金色の瞳に、掴みどころのない光が一瞬だけ走った。

 そして、血まみれの婚約書を受け取る。

「――ついて来い」

――

 婚約の差し替えが終わり、長老たちは「結合の儀は三日後」と告げた。

 だがその三日間、私はほとんどゼインに会わなかった。

 群れの連中は冷たい。すれ違うときも横目で見て、誰も話しかけてこない。

 別にいい。友達を作りに来たわけじゃない。

 マヤなら今頃、部屋に籠って泣いてる。だけど私はマヤじゃない。冷たい視線くらいで折れるか。

 朝は〈夜魘〉を点検し、昼は領地の端を走り、夜は装甲の部品を外しては付け替える。

 東部にいるより、よほど気が楽だった。

 儀式前日の早朝――

 扉を開けると、私のバイクの周りに人だかりがあった。

 雌狼が七、八匹。〈夜魘〉の横で勝手に笑っている。

 シエナが燃料タンクにもたれ、指先で車体をなぞっていた。

「こんなガラクタで来たんだ。そりゃ血まみれにもなるわよねえ」

 誰かが鼻で笑う。

「まともなバイクも用意できないのに、ルナになろうって?」

 くすくす笑いが広がった。

 シエナはため息をつく。

「部族同士の婚約だもの……運が良かったわねぇ……」

 最後まで言わない。けど言いたいことは全部言った。

 前世からずっとそう。直接殴らず、周りに殴らせる。

 雌狼たちの嫉妬と敵意が、熱を帯びていく。

 一匹が足を上げ、〈夜魘〉の側面を思い切り蹴った。

 私は大股で突っ込み、彼女の足首を掴んで捻り折る。

「――ぎゃああっ!」

 彼女が倒れ込む。

 私は振り返りざま、シエナの膝裏を蹴り抜いた。顔から泥に突っ込んで、べちゃりと沈む。

「誰が私のバイクに触っていいって言った?」

 雌狼たちが一斉に爆発する。

「てめぇ――!」

「殴った!」

「なんで――!」

「なんで?」

 訓練場の方から足音。

 ゼインが歩いてきた。視線が泥まみれのシエナから私へ移る。何も言わない。

 私は彼が口を開く前に動いた。

 ゼインの襟を掴み、唇を塞ぐ。

 彼が固まった。全身が硬直する。

 私は少し離れ、犬歯を見せたまま――首筋へ深く噛みついた。

 血の味が、口の中で弾ける。

 周囲が完全に静まり返った。

 異族の雌狼が、黒月の領地で、衆目の前で、アルファに刻印を入れた。

 許可もなく。躊躇もなく。

 私は一歩退き、口元の血を舐め取って、泥の中のシエナへ向き直る。

 彼女は身を起こす。顔は泥だらけなのに、目だけは赤く潤ませていた。

「――私がルナだから」

 私はゼインの首の新しい噛み痕を軽く叩く。

 シエナは涙を拭い、震える声を作った。

「聞いて……本当に、そんなつもりじゃ……ゼイン、私はただ――」

「昔、兄もバイクに乗ってたの。……あの人の……命日が近くて……」

 唇を噛み、肩を震わせる。

「今週ずっと、追悼の場所を準備してたの。毎年、あなたが一緒に来てくれた。でも……」

 私をちらりと見て、すぐ逸らす。

「伴侶が嫌なら、わかる。私一人で行く。慣れてるから……」

 視線が、全部私に刺さる。

 前世もこれだった。涙、命日、ひとりで耐える――

 言葉が正確に急所を抉る。マヤはそれで殺された。

 ゼインが沈黙し、重い顔で言う。

「……俺が行く」

 私は拳を握りしめた。

 首に私の噛み痕。血はまだ乾いてない。

 たった今刻印して、三十秒も経たずにその返事。

 私は手を解き、踵を返す。

 手首を掴まれた。

 振り返らず、脚を上げる――

 ゼインが、地面に叩きつけられた。

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