第3章

リーア視点

 奴は仰向けに地面へ叩きつけられた。中庭全体が水を打ったように静まり返る。

 私はその場に立ち尽くし、見下ろした。

「刻印は消せる」私の声はひどく冷たかった。

「傷はまだ新しい。一週間もあれば塞がる。あいつのお遊びみたいな追悼ごっこに付き合いたいなら、そうすればいい――今ならまだ、全部なかったことにできる。そこまで深くは噛んでないから」

――前世、マヤはこうして負けた。シエナが泣けば、ゼインは飛んでいく。一度、二度、そして数え切れないほど。マヤは抗議から沈黙へ、沈黙から無感情へと変わり、最後には自分が誰なのかさえ忘れてしまった。でも、私はマヤじゃない。姉ちゃんはあんな言葉を飲み込んで、無理して笑えたかもしれない。でも私は? 愛想笑いなんてする気もない。

 私は顔を上げ、周囲の狼たちをねめ回した。

「私はモルガナ家の娘だ。どこかのオメガみたいに、おとなしく従ったりはしない」

 シエナの金切り声が弾けた。

「相談もなしに噛みついたうえに! ボロ雑巾みたいに蹴り飛ばすなんて!」

 彼女は野次馬の狼たちを振り返り、目を赤くしてみせた。

「こんな野蛮な女がルナだなんて! 黒月狼群の恥よ!」

 周囲の雌狼たちがひそひそと囁き合う。

「東部の出はこれだから……」

「アルファがよく黙ってるわね……」

 風向きが変わるのを感じた。

 その時、ゼインが立ち上がった。

「――そこまでだ」

 彼は肩の泥を払い、まっすぐ私に向かって歩いてくる。

 全員の視線が注がれる中、彼は私の手を取り、高く掲げた。

「この傷をよく見ろ。こいつは自分の爪で流れ者の喉を裂き、襲いかかってきたクズどもの急所を牙で噛みちぎってきたんだ」

 そしてシエナへ向き直る。その目は氷のように冷酷だった。

「そして、俺のルナが俺に刻印したのは――俺の狼がこいつに平伏したからだ」

 一瞬の静寂。

「明日の結合の儀に、シエナ、お前は出なくていい。兄の追悼の準備に専念しろ」

 彼は広場全体を睥睨する。空気が凍りついた。

「儀式は予定通り行う。俺が選んだ伴侶に、これ以上口出しする奴がいるなら――」

 声が絶対零度まで下がる。

「黒月の境界線はあっちだ。群れから出て行け」

 シエナの顔から血の気が引いた。彼女は顔を覆い、きびすを返して走り去る。数匹の雌狼たちも俯き、二度と口を開こうとはしなかった。

――

 翌日の儀式は、おぼろげな夢のようだった。

 群れの者たちが祝いの言葉を述べに来る。本心からの者もいれば、表面だけの者もいる。私は一度も愛想笑いを見せなかった。

――この渓谷は最も原始的な法則に従っている。噛み合い、血を流し、強い者が勝つ。マヤはここで声を上げる機会すら与えられなかった。でも私は違う。噛みついてやる。

 日が落ちた。渓谷に焚き火が焚かれ、焼けた肉の匂いと血の匂いが混ざり合って漂う。

 黒月の伝統によれば、結合の儀の最終段階――永久刻印――は、夜が更けてから行われる。

 寝室の扉が背後で閉まったとき、私は石造りの部屋を見回した。荒々しい獣皮の絨毯、壁に刻まれた爪痕。いかにも狼らしく、いかにもゼインらしい。

「先に洗ってくる」ゼインの声が思考を遮った。

「……待っていろ」

 彼は浴室へ入っていく。

 私はベッドの端に座り、水音を聞きながら、無意識に自分の首筋を指でなぞっていた。

――あと数時間もすれば、永久刻印が完了する。そうなれば、私たちは感覚を共有し、痛みを分かち合い、死ぬまで繋がる。

 理由もなく鼓動が早まる。

 浴室の扉が開いた。

 ゼインは腰にタオルを巻いただけの姿で、筋肉の筋を水滴が滑り落ちていく。首元の噛み痕はくっきりと残り、すでにかさぶたになりかけていた――私がつけた刻印だ。

 視線を逸らしたが、頬が熱くなるのを感じた。

 立ち上がり、彼に背を向ける。

「一つ、確認しておきたいことがある」

 彼は近づいてくる。その熱気が伝わってきた。

「なんだ?」

 低く掠れた声。

 私は勢いよく振り返り、彼の目をまっすぐに見据えた。

「もしあんたが、首に私の刻印をつけながら、頭の中では別の女を思い浮かべるようなアルファなら――今すぐ白状しろ。この傷ならまだ消える。永久接続が完了する前なら、バイクに乗って東部へ帰れる」

 彼は少し沈黙した。

「俺がそういう男に見えるか?」

 私は鼻で笑った。

「さあね。ただ、あいつがひと泣きすれば、あんたは私を放り出して飛んで行くってことだけは知ってる」

 ゼインは深く息を吸い込み、ベッドの端に腰を下ろした。

「こういうことを口にするのは得意じゃないんだ、リーア……」彼は言葉を切った。

「俺はアルファだ。物心ついた時から命令を下し、戦い、縄張りを守ってきた。気の利いた……愛の言葉なんて言えない」

 彼は顔を上げ、私を見る。その金色の瞳には、ある種の熱が宿っていた。

「だが昨日、お前が俺に噛みついたとき――」彼は言葉を区切る。

「俺の中の狼が吠えた。『こいつだ。刻印しろ。俺のものにしろ』と。契約だからじゃない。俺の狼がお前を番だと認めたんだ」

 私は必死に平静を装った。

「あんたの狼、随分と見る目がないね。私に地面に蹴り倒されたばっかりなのに」

 彼の口角がわずかに上がった。

「まさにあの瞬間、俺の狼は確信したんだ」

 彼は立ち上がり、近づいてくる。一歩、二歩。

「俺が求めているのは、従順なオメガなんかじゃない。俺の喉元に食らいついてくるような、野蛮な生き物だ」

 私は一歩後退し、背中を壁につけた。

「警告しておく。私は短気だし、頭も回らない。何かあれば泣き喚く代わりに――直接裂く。本当にこんな伴侶と番う気か?」

 彼は私の横の壁に手をつき、身を乗り出す。吐息が顔にかかった。

「百パーセント、確信している」

 どちらが先に動いたのかはわからない。

 次の瞬間、私の指は彼の肩に食い込み、彼の犬歯が私の首筋に押し当てられていた。

 鋭い牙の先が一番上の皮膚を破る。生温かい血の雫が滲んだ。チクリとした痛みと、もっと深い、本能的な震えを感じる。

 彼は動きを止め、喉の奥で低く喘いだ。

「止めろと言えば、止める」

 私はさらに強く彼を掴む。

「私がいつ止めろって言ったよ?」

 ガンッ! ガンッ! ガンッ!

 扉の外から乱暴なノックの音が響く。

「アルファ! シエナからマインドリンクで救援要請が! 黒風崖で襲撃に遭いました! 崖から落ちたかもしれません!」

 ゼインの体が急に強張り、牙が私の肌から離れた。

――くそっ! あと一寸深ければ、永久刻印が完了していたのに。あとほんの一寸だったのに。

 私は彼を力任せに突き飛ばした。

「やっぱりね」私は歯噛みした。

「あいつが喚けば、あんたは行く。刻印の途中だろうとね」

「リーア――」

「言い訳はいい」私は遮り、冷たく笑う。

「黒風崖が危険? なら捜索隊を出せばいい! あんたはこれから私の永久の伴侶になるってのに、そんな命令ひとつ下せないわけ?」

 私は彼を睨みつけ、一字一句をはっきりと告げた。

「それとも――最初から刻印なんてする気なかった?」

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