第1章

勝った。

スコアボードの数字はまだ眩しく光っていて、観客の悲鳴も熱も、会場に置き去りのままだった。

小林舞香は表彰台に立ち、優勝トロフィーを掲げている。けれど頬はほとんど緩まない。

最前列のど真ん中。あの席だけが、今も空席だった。

婚約者の矢野郁真は「見に行く」と約束していたのに、試合が始まってから終わるまで、一度も姿を見せなかった。

失望は針みたいに胸に刺さる。息を吸うたび、ちくりと痛む。

スマホを開く。いちばん上に出てきたのは、矢野汐里のインスタグラムの通知だった。

病院の廊下。ミルクティーを掲げた汐里の肩を、矢野郁真が抱いている。甘やかすような顔で。

そのタイミングで、ようやく郁真からメッセージが届く。

「汐里がアレルギー出た。救急に連れて行く」

「試合は配信で見た。お前のリフト、やばかった」

「先にアパート戻って。あとで行く」

それ以降に流れてくるのは、友だちの「おめでとう」と、どうでもいい通知ばかり。

汐里は九枚の写真を上げていた。病院の廊下、ミルクティー、グレーのパーカーの袖、救急外来のプレート、腫れる前の自撮り――キャプションは「私はいつだって一番大事」。

小林舞香はスマホを裏返し、膝に伏せた。胸が詰まって、息がうまく入ってこない。

松本菜々緒が近づいてくる。

「矢野郁真、来なかったの?」

「うん。家の用事」

菜々緒はそれ以上は聞かなかった。ただ、小林舞香が視線を落としたままなのを見て、副キャプテンの綾部由衣と目を合わせる。

その視線は、善意の遠慮みたいに見えた。だからこそ、余計に苦しい。

みんな知っている。矢野汐里は矢野郁真の義理の妹で、小林舞香に六、七割似ていて――そして、彼の初恋だ。

汐里の母親が亡くなってから、二人を止められる人はいなくなった。残っているのは、間に挟まっている舞香だけ。

小林舞香は「愛されない不倫相手」。

それは舞香の被害妄想じゃない。郁真のラグビーチームの友人が酔って、みんなの前でそう言った。

そのとき泣かなかった。予感していたのか、それともひとりのときに泣き過ぎて、もう涙が枯れていたのか。

舞香はスマホストラップを外した。

去年の誕生日。汐里が生理痛で苦しがっていて、郁真は宥めるために、本来舞香に渡すはずだった誕生日プレゼントを汐里にやった。舞香の手元に残ったのは、この安っぽいストラップだけ。

当時は「気持ちがあればいい」と思った。けれど今なら分かる。これはただのついで、手癖で買った小物だ。

心の入っていない贈り物は、心の入っていない人と同じ。持っているだけで痛む。

アパートに戻ると、リビングの灯りはついているのに、家の中に気配がない。

ソファには、舞香が選んだメンズのスウェットと、レディースの下着が絡み合うように散っていた。艶めいて、乱れていて――どれだけ急いで脱がせたか、ありありと伝わってくる。

玄関でしばらく立ち尽くした。

それから寝室へ行き、クローゼットを開ける。

郁真の服と自分の服がぐちゃぐちゃに混ざっている。右端だけ、ぴたりと整然と掛けられた、タイトなワンピースが一着。

――自分のじゃない。

扉を閉める。開ける。閉める。開ける。

三度目に開けたとき、小林舞香は自分の服だけをスーツケースに詰め、玄関に置いた。それから郁真の服を整えて掛け直した。

矢野郁真が帰ってきたのは夜十一時。

舞香はソファに座り、膝の上にノートPCを広げて試合のリプレイを流していた。

玄関から入ってきた郁真は雨の湿り気をまとい、髪は半乾き。消毒液とストロベリーミルクティーが混ざった匂いがする。

「まだ起きてた?」

ちらりと見ただけで、声は軽い。

「待ってた」

「先に寝てろって言ったろ」隣に座る。「今日の汐里、ほんと焦った。顔も身体も腫れてさ。医者が『間に合ってよかった、遅かったら呼吸困難もあり得た』って」

話しながら、横に畳まれた下着へ目がいき、眉が寄った。

「それ……汐里の。腫れてきつくなったから脱いだだけ。すぐ片付ける」

「矢野郁真」舞香は下着を横へ押しやった。

「ん?」

「今日、試合に来なかった」

郁真の手が一瞬止まる。「だから言っただろ、汐里――」

「知ってる。アレルギーでしょ」舞香は言った。「でも、来なかった」

郁真が振り向く。表情が、罪悪感から苛立ちへ変わる。舞香が汐里のことを口にすると、いつも出てくる顔。

「舞香、優勝したんだぞ。嬉しい。ほんとに嬉しい」

「でも汐里は今日、病院でひとりだった。母親はもういない。この街にいるのは俺だけ。妹なんだ。放っておけない」

「お前は婚約者だろ。お前には全部ある――優勝、友だち、家族。少しは分かってやれないか?」

まただ。

分かって。理解して。

汐里には何もないから、舞香が理解する。

舞香には何でもあるから、気にするな。

舞香は強いから、汐里を可哀想と思え。

表彰台でトロフィーを掲げたのに、観客席に彼はいなかった。

学校中に「身代わり」だと言われても、彼は何も言ってくれなかった。

クローゼットに自分の服がゴミみたいに押し込まれている間、彼は汐里とストロベリーミルクティーを飲んでいた――。

「……あなたの言う通り」舞香はPCを閉じ、感情のない声で言った。「私、全部ある」

「そう思ってくれるなら助かる」郁真は息を吐き、額にキスを落とす。「寝よう。明日、飯奢る。優勝祝い」

郁真が浴室へ向かい、水の音が立った瞬間。

小林舞香はスーツケースを引いて外へ出た。

タクシーの運転手に行き先を告げ、後部座席から雨脚が強まる街を見つめる。

スマホに入っていた住所は三か月前に届いたものだ。短い一行と、番地だけ。

差出人――小林修平。

小林舞香が小林修平とまともに話したのは、祖父の葬儀が一度きり。

墓碑の前。黒い喪服で背筋を伸ばし、深い眼窩に淡い瞳。雲間を抜ける朝の光みたいな色だった。

彼は言った。

「何かあったら、いつでも来い」

社交辞令だと思っていた。

小林修平は祖父が引き取った子で、辻褄で言えば舞香の叔父に当たる。だが年は六つしか違わない。特殊部隊にいた期間が長く、会うのも年に数回。

だから、あの言葉を本気にしていなかった。

でも今は、試してみたくなった。

車が古い別荘の前で止まる。中から濃い煙草の匂いが漂ってきた。

インターホンを押す。

小林修平が現れた。黒いシャツはボタンを留めず、鎖骨が見え、その上に濃い色の傷痕が走っている。指には煙草。全身に煙の匂い。

修平は舞香を見るなり扉を開け、無言で中へ促した。

舞香が眉をひそめると、修平は煙草を灰皿に落とし、厨房で水を注いで持ってくる。

窓際にもたれ、カップを握ったまま言った。

「……で。何があった」

舞香は口を開くが、言葉が出ない。

ここに立つ理由がないことに、急に気づいたからだ。彼は叔父。舞香は名目上の姪。ろくに会話もないのに、真夜中に押しかけるなんて。

外が急にざあっと降り出した。

スマホが光る。矢野郁真から。

「どこ行った? 汐里が雨に濡れた。新しいバスタオルどこ?」

舞香は握りしめ、返さない。

修平は画面を一瞥すると、思いも寄らないことをした。舞香の手からスマホを抜き取り、電源を落としてソファへ放る。

「今夜は帰るな」

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