第2章

小林修平は張り詰めた筋肉と、真っ直ぐな背をしていた。小林舞香の脳裏に、祖父の葬儀の日の彼が重なる。背筋を通し、目に憂いを宿したまま――それでも、最後まで泣かなかった。

昔、祖父は言っていた。小林修平は特殊部隊の人間で、守る側だ。怖がるな、と。

けれど、本人が放つ圧だけで足がすくむ。そこに立っているだけで、息が浅くなる。

小林舞香は小さく言うしかなかった。

「……ありがとうございます」

小林修平は気にした様子もなく、グレーのTシャツと黒いスウェットパンツを差し出し、浴室のほうを指した。それから彼女のスーツケースをひょいと持ち上げ、二階の客室へ運んでいく。

シャワーを終えて上がると、ベッドは灰色のシーツ。折り目がきっちり揃っていて、枕もぺたりと平らに整えられている。いかにも軍人らしい部屋だった。

テーブルにはぬるめの水が用意されている。

小林舞香はコップを手に取り、一口飲んだ。温度はちょうどよくて、胃の奥へすとんと落ちる。

その瞬間、目の奥がつんと痛んだ。矢野郁真は、こういうことを覚えていない。

汐里が冷たいものを飲めないことだけは、しっかり覚えているのに。彼女のために温い水を用意してくれたことなんて、ほとんどない。

コップを戻し、ベッドの端に腰掛けたまま、長いことぼうっとする。

スマホは電源を落としたまま。通知も着信も、苛立たせる言い訳もない。

横になっても寝付けず、何度も寝返りを打って――ようやく、沈むように眠った。

翌朝、小林修平が学校まで送ってくれた。運転は安定している。助手席の小林舞香は見慣れない街並みを眺めながら、スマホの電源を入れた。

起動した瞬間、通知音が十数回、立て続けに鳴る。全部、矢野郁真だ。

「どこ行った?」――23:23

「電話出ろ」――00:15

「汐里がスーツケース引いて出てったの見たって。どういう意味?」――01:02

「舞香、お前がこんなことで拗ねるなら、俺たちも冷静になった方がいい」――01:47

拗ねる。

その言葉が刺さって、舞香は目を閉じた。

彼の目には、全部が「拗ね」なのだ。自分がどこを間違えたのか分からない。いや、そもそも間違っていないと思っている。

さらに下へスクロールする。

「お前の寮の前にいる。いる?」――02:35

「雨だぞ。どこにいる?」――03:10

午前三時の雨の中、学生寮の前で待っていた――。

舞香はスマホを膝に伏せ、試合のために整えたネイルを見つめた。ネイルに付き合って三時間待ったのも、矢野郁真だった。

息を吸って、スマホを返し、最後のメッセージをもう一度読む。

これは「大事にしている」ってことなのか。

分からない。

車が校門前で止まった。

舞香はバッグから小林修平のTシャツを取り出し、座席に置く。

「これ、返します」

「いらない」小林修平は前を見たまま、ハンドルに手を置いた。「やる」

きっちりした人だ。潔癖かもしれない、と舞香は慌ててTシャツを引っ込めた。

「じゃあ……今度、新しいの買って渡します」

ドアを開けたとき、背後から名前を呼ばれる。

「舞香」

振り返ると、小林修平は淡々と彼女を見ていた。

「しばらく任務は入ってない。何かあったら電話しろ。夜中にふらふら出歩くな」

「分かりました、叔父さん」

頷いた瞬間、彼の指がハンドルをきゅっと握り、目が冷えた。

……怒った?

余計なことは言えず、舞香は急いでドアを閉めた。

キャンパスに入ったのに、足が勝手に方向を変える。チア部の練習場ではなく、ラグビー部のグラウンドへ。

体育館の外に立ち、ガラス越しに中を覗く。

――空っぽ。

そうだ。午前は練習がない。

「舞香!」

背後から呼ばれて、舞香は振り返った。

矢野郁真が立っていた。手にはコーヒーが二つ。

目の下は濃い隈、髪はぼさぼさ。服も昨日のまま、皺だらけだ。

早足で近づいてくる。

「どこ行ってた? 汐里、昨夜ずっとお前探してた」

舞香は黙ったまま見上げた。

怒鳴られると思ったのに、郁真は声音を落とす。

「舞香。昨日のこと、ちゃんと話そう」

彼は最初から説明を始めた。早口で、遮られるのが怖いみたいに。

「汐里のアレルギーは本当だ。妹なんだから看るのは普通だろ。深く考えてなかった」

「ソファの下着も……きつくて息できないって言うから脱いだだけ。俺、本当に何も考えてなかった」

真面目な目で見てくる。

「もうしない。……それでいい?」

もうしない。

何を? 家に入れないのか、それとも脱がせないのか。

問い詰めたくなる。汐里を妹として見ているのか、それとも――。

でもやめた。郁真の目には血が滲み、昨夜まともに眠っていないのは本当らしい。

コーヒーはどちらも冷めていた。アメリカーノとストロベリーラテ。ラテは汐里用だろうが、少なくとも彼女のアメリカーノは覚えていた。

「昨日、寮の前で待ってたの?」

郁真は頷く。「雨だった。帰ってくると思った」

「午前三時に?」

「……うん」

「練習は?」

「今日、チーム休みにした」苦笑いする。「来なかったらチア部のほうにも休みの連絡しようと思って」

舞香はアメリカーノを受け取り、一口飲む。

「冷めてる。まずい」

郁真はそのカップを取り、豪快に一口飲んで笑った。ほっとした顔。

「じゃあ買い直す」

「いい。次のチア部の試合、絶対来て」

「もちろん!」勢いよく頷く。

「それと」舞香は拳を握った。「クローゼットに、もう汐里の服は置かないで」

郁真は一瞬ぼけた顔をして、それから茫然と頷く。

「分かった。問題ない」

舞香は踵を返し、チア部の練習場へ向かった。今日は新人選抜がある。欠席できない。

入口で振り返ると、郁真がストロベリーラテをゴミ箱へ捨てていた。

舞香は息を吐く。

――もう一度だけ、信じてみよう。

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