第5章 免責特権
小林舞香の声が聞こえた瞬間、矢野郁真は反射的にそちらを見た。
「舞香、大丈夫か?」
駆け寄って支えようとした、そのとき。
「……っ、いった」
矢野汐里の短い呻きが、彼の注意を一気に引き戻した。
汐里は腕を掲げたまま、怯えきった目で彼を見上げる。
「お兄ちゃん、傷、残るかな……どうしよう……」
「……あいつにやられたのか?」
郁真の声が、すとんと低く落ちた。
汐里は唇を噛み、涙をぽろぽろこぼす。
「うん……でも私、大丈夫……ただ、跡が残ったら嫌で……キャプテン、力入れすぎだよ……すごく痛い……」
郁真の顔から、血の気が引く。次の瞬間には、完全に黒く沈んでいた。
「小林舞香。お前、何してんだよ」
舞香は掠れた声で言い返す。
「私を突き飛ばしたのは、そっちでしょ。見えてなかったの?」
「何が見えてるって?」郁真は乾いた笑いを漏らした。「お前、側転を十回連続でできるだろ。そんなやつが、立ってられないわけない。汐里を陥れるためなら何でもやるんだな」
言葉はそこで終わらない。
「汐里のことが嫌いなのは分かってた。でも、母親を亡くしたばっかの子に手を出すか? もうすぐ命日だぞ。どうしてそこまで――性格悪いことできるんだよ」
舞香は、信じられないものを見る目で郁真を見た。
見ていたのに。
見えていたのに。
それでも、汐里のための言い訳を並べるのか。
「じゃあ、私がわざと引っかいたって言うの?」
「そういう意味じゃない」郁真は視線を逸らす。「汐里は今、精神的に不安定なんだ。もうこれ以上、追い詰めるな」
「郁真」
舞香が言葉を切った。静かすぎる声だった。自分の声とは思えないほど。
「目が悪いなら、監視カメラでも確認したら?」
郁真が一瞬、固まる。
舞香は体を起こす。痛みを堪えながら立ち上がり、さらに冷えた声で続けた。
「見えてたのに、私が悪いって決めるなら。警察呼んでもいいよ。矢野汐里の治療費だって、全部払う。警察が故意だって判断するならね」
そして郁真の目をまっすぐ捉え、一語ずつ落とした。
「だって、あの子は泣いてる。私は泣いてない」
「だって、あの子は母親を失った。私は失ってない」
「だって、あの子は可哀想に見える。私は見えない」
「だから、何が起きても――悪いのは、いつも私」
その瞳に滲んだ哀しみに、郁真は思わず何か言いかける。だが、汐里が彼の腕にしがみついた。
「お兄ちゃん……私、ここにいたくない……病院、連れてって……痛い……」
郁真は深く息を吸い込み、汐里を支えて背を向けた。
出ていく直前、舞香を一度だけ振り返る。
その目にあったのは、疲れと、苛立ちと――「どうして少しも分かってやれないんだ」という責めだった。
それから三日。
小林舞香が「新人を潰している」という噂が校内で膨れ上がった。彼氏の妹に嫉妬して、矢野汐里をチア部に入れないようにしている、という話。あるいは、矢野郁真と矢野汐里こそが「お似合い」で、舞香はただの不倫相手だ、という話まで出た。
舞香は噂を相手にしなかった。
授業に出て、練習をして。
ただ、矢野郁真だけが、もう彼女の隣にいなかった。
四日目。事態が、さらに悪い方向へ転がった。
午後の練習前、汐里がまた体育館に現れた。「自分でも練習して、次のテストを受けたい」と言い出したのだ。
それから十分ほど経った頃。
汐里が突然叫んだ。
「……私のリストバンド、どこ!?」
全員の視線が一斉に向く。
汐里は自分のバッグを必死に漁る。何度も、何度も。手が震えていた。
「どうしたの?」綾部由衣が近づいて声をかける。
「お母さんの形見なの……チア部の記念リストバンドで……お母さんも昔、チア部だったの。これしか残ってなくて……」汐里の声は泣き混じりだった。「さっきまでここに置いてたのに、なくなってる……」
そして、顔を上げる。
舞香へ。
「キャプテン、さっきここにいたよね。見てない?」
練習場が、すっと静まり返った。
全員の視線が舞香に刺さる。
舞香は手にしていた練習計画表を置いた。
「……私が取ったって疑ってるの?」
汐里は俯き、言葉を濁しながら涙を落とす。
「疑ってない……ただ、聞いただけで……」
そのとき、体育館の扉が勢いよく開いた。
矢野郁真が入ってくる。手には、苺のケーキの箱。
「汐里、どうした?」
郁真が駆け寄ると、汐里は彼の胸に飛び込み、わんわん泣きながら訴えた。母の形見が消えたこと。最後にこの辺にいたのが小林舞香だったこと。
郁真の顔が上がる。
「……出せよ」
舞香を見て、言い切った。
もう結論が出ている目だ。
「身体検査したら?」誰かが言う。
舞香がそちらを振り向く。汐里の取り巻きだ。名前までは思い出せない。
「……身体検査?」舞香は小さく笑った。「何の権利があって?」
「取ってないなら怖くないでしょ」
「そうそう。見せれば潔白じゃん」
以前、汐里のプレゼントを受け取って喜んでいた連中まで、口々に言い出した。
郁真が一歩、距離を詰める。
「お前じゃないなら、見せればいい。そうしないなら、疑われるのはお前だ」
舞香は動かなかった。
ただ、郁真の顔を見つめた。
長い沈黙の末、頷く。
「……いいよ」
舞香は背負っていたバッグのチャックを開け、中身をすべて机の上にぶちまけた。
教科書、ポーチ、タオル、ノート――。
リストバンドはない。
「これで満足?」
誰も答えない。
舞香は視線を汐里へ移す。
「じゃあ次は、全員やろう。公平に」
「まず、あなたから」
汐里が目を見開く。
「……私?」
「そう」舞香は淡々と言った。「もしかしたら、自分のバッグに入ってるかもしれないし」
汐里は首をぶんぶん振る。
「探したもん……ないよ、私のバッグには……」
「なら、みんなに見せればいい」舞香は郁真の言葉を、そのまま返した。「そうしないなら、あなたの嫌疑が一番濃い」
一瞬の沈黙のあと、松本菜々緒がためらいながら前に出た。
「……うん。全員やろ。私も次、見せるから」
そう言いながら、汐里のバッグを取り上げて軽く探る。
そして。
「……あれ?」
菜々緒の指先が、青いリストバンドをつまみ上げた。
「ここにあるじゃん。ちゃんと探したの?」
「違う……!」汐里が慌てて両手を振る。「私、入れてない! さっき絶対、なかったもん……!」
汐里は怯えた目で舞香を見る。
舞香は、表情ひとつ変えなかった。
さっき舞香がバッグを汐里の隣に置いたとき、視界の端で汐里が舞香のバッグに手をかけたのが見えた。嫌な予感がして戻ったら、案の定だった。
まさか、こんな幼稚な手で嵌めてくるとは思わなかった。
だから舞香は、拾い上げて、何でもないふりで汐里のバッグへ戻した。
――「そういうこと」にしてやった。
けれど、郁真のあの露骨な肩入れを思い出すと、汐里がここまでやる理由も分かってしまう。
矢野郁真は、いつだって汐里を信じる。
いつだって。
郁真の表情が揺れる。リストバンド、舞香、そして汐里へ。
「お兄ちゃん……私、本当に見えなかったの……」汐里は袖を掴み、途切れ途切れに泣く。
郁真は汐里の手をぽん、と叩いた。声は妙に落ち着いていた。
「汐里、最近ストレスが溜まってるんだ。情緒も不安定で……さっきのも、たぶん本当に見間違えたんだろ。わざとじゃない」
そして舞香を見る。
「舞香。お前はキャプテンだろ。この件はここまでにしよう」
「汐里には、もう少し優しくしてやれ。これからは、譲ってやれよ」
その言葉に、周囲が息を呑んだ。
舞香の背後で、松本菜々緒が怒りで震えているのが分かる。
舞香は何も言わなかった。
郁真を見つめるだけで、体の芯が冷えていく。
下着の件では、「脱いだだけ。深く考えてなかった」
選抜では、「新人なんだから、どうしてそこまで」
試合では、「汐里には俺しかいない。分かってやれ」
そのたびに、舞香が譲れと言った。
そのたびに、舞香が悪者になった。
大人になれ、理解しろ、我慢しろ、引け――そうやって。
汐里には、いつも無罪の理由が用意されている。
汐里には、いつも許される特権がある。
舞香は思う。
矢野郁真の心の中で、汐里はいつだって、自分より上だ。
「……分かった」
舞香はそう言った。
「譲ってあげる」
