第54章

矢野汐里の手はなおも下へ滑っていく。身体もじわりと近づき、二人の吐息が絡み合った。

「郁真……私たち、あの頃の感じ、まだ覚えてるよね?」

そう囁いた次の瞬間、彼女はくるりと向きを変え、そのまま矢野郁真の上に跨った。顔がゆっくり近づいてくる。

甘い香水の匂いがふわりと押し寄せる。郁真の喉仏がごくりと上下し、両手は無意識のうちに彼女の腰を掴んでいた。

元恋人同士だった彼らにとって、こんな距離はかつて当たり前だった。

矢野郁真が初めて身体を重ねた相手も、矢野汐里だった。あの頃の彼は何も分かっていなくて、汐里に一つひとつ教えられ、導かれ、そのまま深く溺れていった。

高嶺の花には抗いがたい...

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