第6章 もう一度チャンスを与える
あの日以来、小林舞香は矢野郁真に一度も会っていない。こちらから連絡もしなかった。
毎朝机の上に置かれていたコーヒーは消え、メッセージも驚くほど減った。
矢野郁真は最初の二日ほど、謝罪めいた文を送ってきた。けれど、その言葉の芯にあるのは責める調子だった。
「汐里はもともと繊細なんだ。なんでわざわざ今、あんな思いをさせた?」
「父さんはチア部に追加で予算を出すって言ってる。まだ不満なのか?」
「鈴木監督だって汐里は才能があるって。なんでお前だけ反対するんだよ」
「舞香、一回くらい俺のことも分かってくれない?」
舞香は一通も返さなかった。すると矢野郁真からの通知も、そこで途切れた。
冷戦は一週間続いた。
舞香はチア部の試合前練習に全神経を注ぎ、矢野郁真のことを考えないようにした。矢野汐里も、練習場には顔を出さなかった。
休憩中、松本菜々緒が肩をぽん、と叩く。
「誕生日、何欲しい? お小遣い、けっこう貯めたんだよ」
「誕生日?」舞香は日付を見て、ようやく思い出した。明後日だ。しかも、ラグビーチームの今季初戦の日。
菜々緒は呆れ顔になる。
「キャプテン、少しは息抜きしなよ。試合も大事だけど、誕生日も大事。聞いたよ、矢野郁真がバー予約してるって。舞香が一番好きなブルースバー」
菜々緒の彼氏はラグビーチームの選手だ。舞香が知らない話まで、自然と耳に入ってくる。
舞香はそっと拳を握った。――彼、私のために誕生日会を?
そのとき、スマホが震えた。矢野郁真から。
いつもの「冷静になれ」「ちゃんと話そう」みたいな型通りじゃない。
「明後日の試合、スタンドに席とってある。Cブロック1列目ど真ん中。いちばん見やすい。俺の試合、見に来いよ」
舞香はその一行を見つめ、指先を画面の上で数秒止めた。
席を、残してくれていた。
その場所も知っている。フィールドの50ヤードライン正面で、全体がいちばん綺麗に見渡せる特等席。以前は毎回、そこに座って彼の試合を見ていた。
舞香はスマホを手のひらに握り込む。
もしかしたらサプライズなのかもしれない。もしかしたら、明後日が自分の誕生日だとちゃんと覚えていて、試合を口実に呼び出して、皆の前で――。
深く息を吸って、舞香は一言だけ返した。
「うん」
試合当日。舞香はいつもより早く起き、鏡の前に長く立った。
白いワンピースを選び、薄くメイクをする。耳には、彼がくれたダイヤのピアス。
友人や家族からは誕生日のメッセージが届いた。――矢野郁真からだけが、来ない。
大丈夫。サプライズの準備で忙しいんだ。直接「おめでとう」って言ってくれるなら、その方がいい。そう自分に言い聞かせた。
球場に着くころには、スタンドはすでに人で埋まっていた。
人の波を縫ってCブロックへ。1列目の真ん中――そこに座っていたのは、矢野汐里だった。
矢野郁真のチームジャケットを羽織り、髪は下ろしたまま。作り込んだメイクに、手にはストロベリーラテ。体を斜めにして、隣の誰かと楽しそうに話している。
その周りには矢野郁真のチームメイトが数人。舞香に気づくと、みんな微妙に視線を泳がせた。
「キャプテン? 来たんだ」汐里は本当に意外そうな声を作る。
「お兄ちゃんが私に一番いい席って。キャプテンが来るって、知らなかったのかも。後ろなら、まだ空いてるんじゃない?」
舞香は何も言わない。Cブロック1列目は、とうに満席だった。
舞香はCブロック2列目の端、ほとんど死角みたいな場所に腰を下ろした。ここからは、フィールドがよく見えない。
試合が始まる。
赤いユニフォームの矢野郁真が、太陽の下で燃えるみたいに立っていた。
調子はいい。開始5分であっさり得点。
スタンドが揺れるほどの歓声。
汐里が跳ねるように立ち上がり、腕を大きく振った。
「お兄ちゃん、がんばって!」
声が大きい。周囲にもはっきり届いて、ざわざわと噂が広がる。
「矢野郁真の彼女? かわいくない?」
「違うだろ、彼女はチアのキャプテンって聞いた」
「義妹らしいよ。元カノでもあるって。やばくない? 禁断系?」
舞香は表情を変えず、ただ矢野郁真だけを見ていた。
矢野郁真は走り、投げ、決める。ときどきスタンドへ視線を送る。――けれど、見ているのは汐里のいる方向で、舞香の存在には気づきもしない。
ハーフタイム。汐里はコーラを持って場内へ駆け寄り、矢野郁真に手渡した。
彼はそれを受け取って一口飲み、汐里の頭をくしゃりと撫でる。二人で笑う。その笑顔が、やけに甘い。
汐里がスタンドへ戻ってくると、肩にタオルが掛かっていた。矢野郁真が汗を拭いたタオル。まるで何かの印みたいに。
舞香の横を通るとき、汐里は足を止めた。
「キャプテン、お兄ちゃん今日すごいでしょ? 見た?」
舞香は答えない。ここからは、ほとんど見えない。
汐里が腰を折り、さらに近づく。
「そうだ。キャプテン、誕生日おめでとう。今日は笑ってなきゃ」
言い終えると、ふっと笑って離れた。1列目に戻り、タオルを丁寧に畳んで膝に置く。
舞香はその場で、ゆっくりとスカートの裾を握り締めた。
汐里は今日が舞香の誕生日だと知っている。
なら、今の全部はわざとだ。わざと、舞香を苦しくさせるため。
舞香はスマホに目を落とす。エルメスの配信通知。――本日より配送開始。
一瞬、息が止まった。すぐに、細く吐き出す。
矢野郁真は会員登録だのポイントだのを面倒がって、いつも舞香のカードで決済していた。
注文内容を見たまま、舞香はフィールドの矢野郁真へ視線を上げる。
彼はチームメイトとハイタッチし、楽しそうに笑っている。ふいにこちらを見た――気がして、笑顔がいっそう眩しく見えた。
舞香は目を閉じ、深く息を吸った。
シーズンの試合は大事。矢野郁真がプレゼントを用意してくれているだけでも、きっと精一杯なのだ。
忙しいだけ。緊張していて、話しかける余裕がないだけ。
試合が終われば、きっと来る。ケーキと花を抱えて、チームメイトの前をまっすぐ歩いてきて――「誕生日おめでとう」って。
もう少しだけ。
もう少しだけ、待てる。
