第7章 誕生日プレゼント
後半戦も、矢野郁真の出来は相変わらず抜群だった。
残り3分。決定的なトライを決め、チームは勝負を決める。スタジアムが揺れるほどの歓声が爆ぜた。
小林舞香は隅の席に座ったまま、フィールドの彼が仲間に担ぎ上げられ、ぐいっと持ち上げられて、空へ放られるのを見ていた。
口元が、ほんの少しだけゆるむ。けれどその笑みは浅く、すぐに消えた。
試合が終わり、矢野郁真はチームメイトに囲まれながらロッカールームへ向かう。スタンド脇を通ったとき、彼は最前列の矢野汐里へ手を振った。
汐里は飲みかけのストロベリーラテを掲げ、眉も目尻もきゅっと下げて笑った。
そのとき、小林舞香のスマホがぶるっと震える。松本菜々緒からのメッセージだった。
「祝勝会、いつもの場所。ラグビーチーム全員いるよ、早く来て!」
続けて送られてきた位置情報は、学校近くのブルースバー。矢野郁真が貸し切ると言っていた店だ。
舞香は画面を一瞥し、スマホをしまって立ち上がる。
すぐには向かわず、いったんアパートへ戻った。動きやすいスポーツウェアに着替え、耳元のダイヤのピアスも外す。そうして初めて、鏡の中の自分が「自分」に戻る。
――今日は自分の誕生日だ。自分が自分を機嫌よくしてやれば、それでいい。
鏡の自分に小さく笑いかけ、舞香は部屋を出た。
バーの中は、もう出来上がっていた。
ラグビーチームもチア部も揃っている。もともと交流のある二つの部で、キャプテン同士がカップル――こういう場に「全員集合」になるのは自然な流れだった。
舞香が扉を押し開けると、矢野郁真はちょうど大勢に囲まれ、次々と酒を流し込まされているところだった。
黒いTシャツに着替え、髪はまだ完全には乾いていない。笑いながら差し出されたグラスを受け取り、喉を鳴らして一気にあおる。
「舞香さん来た!」
誰かがそう叫ぶと、視線が一斉に舞香へ集まった。
矢野郁真もこちらを見て、笑顔のまま手招く。
「舞香、こっち」
舞香は彼の隣へ行き、腰を下ろす。
けれど郁真は舞香を見ず、すぐにチームメイトとの雑談へ戻った。
彼の手が、昔と同じように自然に舞香の肩へ回る。
――なのに、その手がやけに軽い。触れているだけで、重さがない。
場はどんどん温まり、全員が少し浮き足立っていく。
松本菜々緒がグラスを持ったまま立ち上がった。
「ねえ、今日ってさ……なんか特別な日じゃなかったっけ?」
綾部由衣もすぐに乗る。
「そうそう! 私、忘れるとこだった! 今日は――」
わざと引っ張って、由衣は舞香を見る。
舞香はグラスを手にしたまま、何も言わない。
「うちのキャプテンの誕生日!」菜々緒が高らかに宣言する。「矢野キャプテンさ、彼氏として失格じゃない? 試合勝ったのはめでたいけど、彼女の誕生日くらい祝わなきゃ!」
「それそれ!」由衣が畳みかける。「バーも前から押さえて、サプライズも用意してたんでしょ? 矢野キャプテン、やることが計画的すぎ!」
チア部の子たちは、舞香の誕生日を知っている。だから余計に盛り上がる。
「試合も勝って、彼女の誕生日も完璧とか、二重におめでたいじゃん!」
「さっきエルメスの配達、店の前に来てるの見たんだけど! 矢野キャプテン、男前すぎ!」
「え、マジで? エルメス? 舞香、愛されすぎでしょ!」
囃し立てる声が波みたいに押し寄せる。
みんな笑って、みんな羨ましがっている。
舞香はその真ん中で、鼓動だけがやけに速かった。
矢野郁真の顔を見る。
「バレちゃった」みたいな照れ。あるいは「知ってたの?」みたいな、少しのはにかみ。そういうのを探して――
息が止まった。
矢野郁真の表情が、おかしい。
一瞬だけ、目が泳ぐ。茫然とした空白が挟まり、それから何かを思い出したように、露骨に気まずくなる。
郁真は落ち着かない視線で舞香を見て、何か言おうとした。けれど――
「矢野キャプテン、今さらとぼけんなよ!」
ラグビーチームの一人が肩を叩いて大笑いする。
「舞香さんもう知ってんだって! ほら、早くプレゼント出せ!」
「エルメスだぞ、目ん玉かっ開かせてくれよ!」
「俺の彼女に『矢野キャプテン見習え』って言われたわ! 模範彼氏だってさ!」
そこへ、店員がワゴンを押して個室に入ってきた。
山みたいな薔薇の花束。その中心に、エルメスのオレンジ色の箱。値段なんて、見なくてもわかる。
ぱんぱんっと拍手が起き、口笛が鳴り響いた。
「うわ、マジでエルメス!」
「矢野キャプテン、やべえ!」
「舞香さん、幸せ者すぎ!」
菜々緒が興奮したまま舞香の腕を掴む。
「ほら! 言ったじゃん、絶対覚えてるって! あんたが疑いすぎなんだよ!」
舞香は返事ができなかった。
ただ、目だけがやけに冴えて、矢野郁真から離れない。
矢野郁真は箱を抱えて戻ってくる。さっきより笑顔が「自然」に見えた。
舞香の前で足を止め、差し出す。
「舞香、誕生日おめでとう」
――なのに、胸がすとんと沈んだ。
一緒にいる時間が長すぎる。ほんの小さな不自然さだって、見逃せるはずがない。
彼は、何に気まずくなった?
周りがはやし立てる。
「開けて! 開けて!」
「見せてくれよ!」
舞香は手を伸ばし、箱を受け取った。
オレンジの箱。きちんと結ばれたリボン。白い包み紙にはエルメスのロゴ。
そのリボンに指をかけた瞬間、矢野郁真が反射的に舞香の手を押さえた。
「舞香……開けるの、帰ってからにしない?」
「なに照れてんの、矢野キャプテン!」菜々緒が笑う。「ここ全員、友だちじゃん」
他の面々も口々に続く。
「こういうのってオーダー品もあるんでしょ? 絶対、矢野キャプテンが本気で選んだやつだって」
「予約できるの矢野キャプテンくらいじゃない?」
「ほら、目ぇ見開かせてくれって!」
矢野郁真は奥歯を噛み、手を放した。
「……じゃあ、ちょっとだけな。細かいのは帰ってから見ろよ」
舞香はわけが分からないまま、深く息を吸う。
ゆっくりリボンをほどき、蓋を持ち上げた。
場内が、すっと静まる。
全員の視線が、その箱に落ちた。
舞香は中のバッグを取り出す。
バーキン。エトゥープ。今年人気のカラー。数日前、エルメスの公式サイトで見かけた、まさにあの一品だった。
なんとなく眺めていただけなのに、郁真が覗き込んできて「その色、いいじゃん」と言った。
好きだった。けれど、予約は10か月待ちで――諦めた。
それを、彼が本当に。
指先がきゅっと固くなる。舞香はバッグを持ち上げた。
「舞香!」
矢野郁真が止めようとしたが、もう遅い。
舞香の表情が、そこで凍りついた。
手から力が抜け、バッグがぽとりと箱へ戻る。
内側。そこに、金の刻印があった。
舞香の名前じゃない。
――矢野汐里。
