第2章
そのひと言が、ずしんと谷口凛華の胸に落ちた。視界がぐらりと暗くなる。
桐生颯馬へ目を向ける。小さな顔をこわばらせ、谷口日奈のそばにぴたりと張りついたまま、凛華を警戒しきった目で見上げていた。
谷口凛華の心は、ゆっくりと底へ沈んでいく。唇の端に、かすかな嘲りが浮かんだ。
「わかった。今すぐ出ていく」
背を向けて二階へ上がり、着替えを数枚だけ手早くまとめる。続けて桐生朔弥の書斎へ向かい、離婚協議書に署名を入れてギフトボックスに押し込んだ。
階下へ戻ると、谷口凛華は用意していたギフトボックスを差し出し、低く告げる。
「お誕生日おめでとう。このプレゼント、きっと気に入るわ」
桐生朔弥は無造作に受け取り、冷ややかに言い放った。
「今度は何を企んでる」
結婚してからというもの、彼の目には、彼女のすることなすことすべてが打算に映った。子どもを産んだことも、働きに出たことも、熱を出して入院したことさえも、同情を買うための芝居だと決めつけられた。
誤解されることには、もう飽きるほど慣れている。今さら弁明する気力も湧かなかった。
谷口凛華は隣にいる桐生颯馬を一瞥すらせず、そのまま踵を返す。
その背を見た瞬間、桐生朔弥の胸の奥に、理由のわからないざわつきが走った。手元の箱へ視線を落とし、開けてみようかと思いかけた、そのとき。
「日奈さん、大丈夫!?」
桐生颯馬の甲高い叫びが響く。
「どうした」
桐生朔弥の注意はそちらへ引き寄せられ、ギフトボックスは無造作に脇へ置かれた。
……
家を出たあと、谷口凛華は適当に見つけたホテルへ身を寄せた。
広いベッドに倒れ込んでも、頭の中はぐちゃぐちゃのまま。桐生颯馬のあからさまな拒絶の顔が浮かんでは消え、次の瞬間には、桐生朔弥の情け容赦ない眼差しが胸をえぐった。
心の奥が、鈍い痛みを引きずるようにうずき続ける。
その夜は、一睡もできなかった。
翌朝、谷口凛華は会社へ向かった。業務報告をしようとしたが、秘書に上司が来客対応中なので三十分ほど待ってほしいと言われる。
入社して三年。最初の半年を除けば、彼女はずっと各地を飛び回る出張続きだった。そのせいで、いまの彼女には決まった席すらない。
「応接室で待たせてもらいます」
そう告げると、秘書はにこやかに頷いた。
「かしこまりました。ご案内しますね」
案内されて応接室の前まで来たとき、谷口凛華は中に先客がいることに気づく。
谷口日奈だった。
白いノースリーブのワンピースに、背中へ流した黒の巻き髪。メイクも抜かりなく、いつもの無垢な顔立ちに、今日はどこか仕事用の輪郭が加わって見えた。
「中にいるの、うちに新しく入る予定のプロダクトマネージャーなんです。今日は職場に慣れてもらうためでして」
秘書がそう説明し、続ける。
「私は瀬川社長に資料を届けないといけないので、先に入ってお待ちください」
プロダクトマネージャー――。
谷口凛華は一瞬だけ眉を動かしたが、表情には出さなかった。
「わかりました。ありがとうございます」
秘書を見送り、中へ入ろうとしたところで、振り向いた谷口日奈と視線がぶつかる。
「谷口さん、偶然ね」
谷口凛華は余計な会話をする気もなく、軽く会釈して席に着いた。
だが谷口日奈は、そのまま話を続ける気満々らしい。
「ここで働いてるの? たぶん、もうすぐ私たち同僚になるわよ」
そう言ってから、困ったように小さく笑う。
「朔弥兄さんったら大げさなの。ただ出勤するだけなのに心配だからって、わざわざ送ってくれたのよ。そうだ、時間があるなら帰りは一緒にどう? 昨日あなたが出ていったあとも、颯馬がずっとあなたのこと口にしてたし」
言葉の端々に滲む見せつけを、谷口凛華はさらりと受け流した。
「結構よ。私は、わざわざ人の家で世話係をする趣味はないの」
谷口日奈の顔色がわずかに揺れる。けれどすぐ、鼻で笑った。
「趣味がないんじゃなくて、資格がないんじゃない?」
立ち上がり、見下ろすように凛華を見つめる。
「あんた、昔きたない手で朔弥兄さんのベッドに潜り込んで、そのうえ子どもを盾にして桐生家へ嫁いだんでしょ? それでどうなったの。何年たっても愛されないまま、仕事って名目で遠くへ追いやられて――」
唇をゆがめて、吐き捨てる。
「私があんただったら、とっくに恥ずかしくて消えてるわ」
谷口凛華の表情が、すっと変わった。体の横に垂れた手が、きゅっと強く握り締められる。
――それ、どういう意味?
頻繁な出張は、会社の都合だからではなかったのか。
これまで見過ごしてきた違和感が、一気に胸へ押し寄せる。そういえば入社面接のとき、会社のトップがじきじきに出てきて、仕事とは無関係な家庭の事情まで何度も尋ねてきた。あれは身元確認だったのかもしれない。
しかも入社して間もなく、会社は様子を見るように出張を命じ始めた。
数年のあいだ、彼女が本当にH市へ留まれた時間など、二か月にも満たないかもしれない。
全身の血が引いていく。喉の奥に綿を詰め込まれたみたいに、息が苦しい。
それでも谷口凛華は、ゆっくりと顔を上げた。得意げな谷口日奈をまっすぐ見据え、静かに言い返す。
「あなたこそ、何を得意になってるの? 桐生朔弥が本当にあなたを大事にしてるなら、どうして私と離婚して、あなたを正式な桐生奥さんにしないの」
谷口日奈の唇から笑みが消えた。目に滲むのは、どす黒い憎しみ。
「それは、あんたが厚かましく桐生家にしがみついてるからでしょう!」
谷口凛華は、くすりと笑う。
「本気で桐生朔弥が私を邪魔だと思ってるなら、追い出すくらい簡単でしょう?」
そのひと言で、谷口日奈の顔色がさっと変わった。
谷口凛華は気づかないふりをして、さらに続ける。
「谷口家のお嬢様が、男の甘い言葉ひとつでのこのこ出ていって、家政婦みたいな真似をしてるなんてね。愚かなのか、純情なのか、判断に困るわ」
「谷口凛華!」
痛いところを突かれた谷口日奈が、かっとなって手を振り上げる。
谷口凛華は反射的にその手首をつかんだ。次の瞬間――。
「きゃっ!」
谷口日奈が悲鳴を上げ、わざとらしく後ろへ倒れ込む。
「谷口凛華!」
背後から男の怒声が飛んだ。
直後、強い力で腕を乱暴に引かれ、谷口凛華の体は大きく横へ弾かれる。
鈍い衝撃。腰がテーブルの角に激しくぶつかった。
「っ……」
鋭い痛みが走り、思わず声が漏れる。白く霞む視界の向こうで、ようやく息を整えたときには、桐生朔弥が谷口日奈を大切そうに抱き起こしていた。
谷口日奈は彼の腕の中で涙をにじませ、か細い声をこぼす。
「朔弥兄さん、谷口さんを責めないで……わざとじゃないの」
桐生朔弥の冷え切った視線が、谷口凛華を射抜く。
「谷口凛華。お前はそこまで性根が腐ってるのか」
谷口凛華は言葉を失った。腰の痛みがさらに深く食い込み、うまく息すらできない。
「違う、私は――」
言いかけた声を置き去りにして、桐生朔弥は谷口日奈を抱えたまま背を向ける。
「今日の件、どう落とし前をつけるか自分で考えておけ」
その背中を見つめながら、谷口凛華の瞳から光がすっと消えた。
小さく苦く笑う。
――もう、いい。
十分後。谷口凛華は瀬川部長のオフィスに立ち、迷いなく告げた。
「瀬川部長。本社の『オリジナル』プロジェクトへの参加を申請したいです」
瀬川部長は目を見開く。
「本気かい?」
それは会社の今後二十年を左右するとまで言われる研究だった。
市場ではロボットの高度化が急速に進んでいる。ならば次に主流となるのは、より人に近い存在――人型ロボット。そこに将来性を見出した会社は、極秘裏に『オリジナル』プロジェクトを動かしていた。
半月前、本社から谷口凛華へ参加の招待が届いていた。あのときの彼女は、少しでも桐生颯馬のそばにいたくて、その誘いを断ったのだ。
