第4章

リビングには、ひやりと張りつめた空気が沈んでいた。

桐生朔弥の黒い瞳には、煮え立つような怒りが渦巻いている。

以前の谷口凛華なら、きっと柔らかく宥めていた。けれど今は、心ひとつ波立たない。ただ冷ややかに一瞥をくれると、そのまま踵を返して部屋へ戻った。

後悔しているのかと問われれば、もちろんしている。

もっと早く、目を覚ますべきだったと。

冷たい夫。情のない息子。

この家にはもう、未練を引き留めるものなど何ひとつなかった。

気づけば荷造りは終わっていた。

半分ほどしか埋まっていないスーツケースを見下ろし、凛華はふっと苦い笑みをこぼす。

結婚してからというもの、仕事の時間を除けば、自分のすべてを夫と子どもに注いできた。

買い物に出ても、真っ先に考えるのは息子に何がいるか、朔弥に何が必要か――そればかり。

自分のことは、いつだって後回しだった。

大事にされないのも、無理はないのかもしれない。

自分ですら、自分をちゃんと愛してこなかったのだから。

他人が愛してくれるはずもない。

スーツケースの中は、がらんとしていた。入っているものは驚くほど少ない。

着替えが数枚。わずかな日用品。

それだけだった。

凛華は取っ手を握りしめ、数年を過ごした寝室をじっと見渡す。つんとする鼻の奥をこらえ、くるりと背を向けた。

リビングでは、桐生朔弥が陰気な顔のままソファに腰を下ろし、脚を組んでいた。物音に気づいて目を上げ、わずかに眉をひそめる。

「また何を騒いでる」

低く掠れた声。怒りをどうにか押し殺しているのがわかった。

凛華は目を上げ、淡々と彼を見る。

また――?

自分がいつ騒いだというのだろう。騒げる立場ですらなかったくせに。

なんて滑稽な言い草。

凛華は朔弥の冷え切った視線を無視し、スーツケースを手に階段を下りていく。

ソファの脇を通り過ぎかけたとき、不意に足が止まった。

そこには、お菓子を頬張っている桐生颯馬がいた。

子どもの胃腸は弱い。口に入れるものには、人一倍気をつけなければならない。

以前の彼女なら、こんなもの絶対に食べさせなかった。まして、こういう体にも胃にも負担がかかるうえ、糖分だって多い菓子ならなおさらだ。

唇がかすかに動く。

けれど、颯馬の嫌悪をむき出しにした目とぶつかった瞬間、何ひとつ言えなくなった。

当の颯馬はお菓子を胸に抱え込み、取られるとでも思ったのか、警戒心むき出しで彼女を睨んでいる。

……もういい。

もしかしたら、自分たちには母子になる縁がなかったのかもしれない。

結局、凛華は何も言わなかった。

ただ一歩ずつ、玄関へ向かう。

漆黒の夜の中、背筋をまっすぐ伸ばしたまま、迷いなく家をあとにした。

けれど彼女は知らない。

颯馬がずっとソファの上に立ち、去っていく背中を見つめていたことを。

「……ママ、行っちゃうの?」

父を見上げる颯馬の黒い瞳には、戸惑いがにじんでいた。

朔弥は指先でキーボードを叩きながら、顔も上げずに言い捨てる。

「騒ぎ終われば戻ってくる」

気を引くための駆け引きなど、自分には通じない。

ベッドに入り込んで妻の座を手に入れた女だ。手口だけは多い。

朔弥は一度だけ息子に目をやると、ノートPCを抱えたまま書斎へ消えた。

広いリビングに、颯馬だけがぽつんと残される。

見えなくなるまでその背中を追っていたせいか、胸の奥がきゅっと酸っぱくなった。

どうしてだろう。

ママは、もう僕のこといらないのか。

『もうすぐあなたのママじゃなくなる。あなたのご機嫌を取る必要なんてないわ』

あのひと言が、呪いみたいに頭の中をぐるぐる回る。

颯馬はしおれた声でつぶやいた。

「……ほんとに、僕のこといらないのかな」

ちょうど通りかかった石村さんが、その様子に胸を痛め、そっと声をかける。

「そんなふうに考えちゃだめよ。子どもをいらないなんて思うお母さん、いるはずないでしょう」

「ほんと?」

ぱっと目を輝かせた颯馬は、すぐに何度も頷いた。

「やっぱりそうだよね! きっと僕が日奈さんと仲いいから、やきもち焼いてるんだ」

自分に言い聞かせるように、何度も何度も繰り返す。

しばらくして、颯馬は電話をかけた。

「日奈さん、ママが出ていった……家からいなくなっちゃった……」

電話の向こうで、谷口日奈が一瞬言葉を失う。

「……家出したってこと?」

「ほんと最悪……」

颯馬はそのまま、不満をだらだらとこぼし続けた。

日奈はあからさまにうんざりした顔をしながらも、声だけは甘くやさしい。

「はいはい、怒らないの。おばさんがお菓子買ってあげるから、ね?」

お菓子。そのひと言だけで、颯馬の機嫌はころりと変わった。

通話を切るころには、もうにこにこしている。

「またいっぱいお菓子食べられる! やったー!」

ママが家出したところで、どうせそのうち戻ってくる。

戻ってこないなら、それはそれでいい。日奈さんといるほうが、ずっと楽しいのだから。

たくさんお菓子を買ってもらえる未来を思い浮かべ、颯馬はぴょんぴょん跳ねながら部屋へ戻っていった。

石村さんはその背中を見送り、やるせなさそうに首を振る。

凛華のことを思うと、ため息しか出なかった。

……

「くしゅんっ」

夜道をしばらく歩き続けた凛華は、荷物を抱えたまま汗だくになっていた。そこへ風が吹きつけ、盛大なくしゃみが飛び出す。

どうにか会社の寮へたどり着き、ベッドに倒れ込んだときには、もうくたくただった。

まもなく本社への異動が決まっている。

これから始まる忙しい毎日を思うと、不思議なくらい胸が弾んだ。

部屋を整えると、凛華はすぐ勉強に取りかかる。

本社には優秀な人材が集まっている。これまでも仕事はしてきたが、それでも家庭のために割いていた時間は少なくなかった。

けれど今は違う。家に縛られることはない。遅れを取らないよう、スポンジのように知識を吸収していった。

そうして、あっという間に半月が過ぎる。

凛華からあの父子に連絡を入れることはなかった。

向こうから連絡が来ることも、一度もない。

まるで最初から他人だったみたいに。

でも、それでよかった。

朝。

谷口凛華は、窓から差し込む陽射しの中で目を覚ました。

桐生朔弥も桐生颯馬もいない日々は、驚くほど穏やかだった。

仕事をしながら子どもの食事や体調を気にかける必要もない。朔弥が今どこで何をしているのか、ほかの女と一緒にいるのではないか――そんなことを考えなくていい。

悪くない。

ぐっと伸びをした、そのとき。会社から電話が入った。

本社へ行く前に、まずは現地視察をしてほしいという。

数時間後。

巨大なテックパークを前にして、凛華の胸は高鳴っていた。

ここが新しい出発点。

ここで結果を出せば、AIの世界で自分の居場所をつかめる。

「おや、誰かと思えば。うちの天才・凛華じゃないか」

からかうような声に、凛華は振り返った。見覚えのある姿を見つけ、わずかに目を見張る。

「先輩……どうしてここに?」

「ちゃんと先輩だって覚えてたのか? 卒業してからってもん、お前に会うのがほんと大変でさ」

岡野明裕は後ろにいた人たちを連れて近づいてくると、感心したように息をついた。

「時間ってやつ、お前にはずいぶん優しいんだな。何年経っても全然変わってない。学生のころ、そのまんまだ」

褒められて、凛華は少し頬を染めた。

「からかわないでください。でも、先輩こそどうしてここに?」

「でかい案件の視察だよ。で、お前は? お前、うちの代じゃ一番成績よかっただろ。まさかこのプロジェクトに参加するのか? だとしたら助かるな。お前がいてくれたら、こっちの手間がかなり省ける」

そう言って、明裕は後ろの社員たちへ向き直り、妙に真面目な口調で紹介した。

「よく見とけ。こいつがうちの大学じゃ有名だった天才だ。先生が最後に取った弟子で、いちばん自慢の教え子でもある。……まあ残念なのは、こいつが恋愛にのぼせるタイプだったってことだな。卒業してすぐ結婚して、子どもまで産んじまった。そうじゃなきゃ、今ごろ俺たちみんな、この人の下で働いてたかもしれない」

冗談めかしたその言葉に、場の空気が一瞬だけ揺れた。

向けられる視線の意味を感じ取りながら、凛華は胸の奥に、恩師への申し訳なさにも似た痛みを覚えていた。

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