第1章 親族の認知

「キィィ――バンッ!」

耳を裂くブレーキ音が、真夜中の峠道の静けさを引き裂いた。直後、腹の底まで揺さぶる衝突音。

江川莉奈は大型バイクを急停止させ、長い脚を地面に突き立てる。少し先――赤いランボルギーニが、もはや車の形を失うほどに潰れていた。フロントは凹み、フロントガラスは蜘蛛の巣みたいに砕け散っている。

彼女はバイクから降り、歪んだドアを力任せにこじ開けた。

運転席の男は頭から血を流し、左脚の骨が皮膚を突き破っている。大動脈でも裂けたのか、血が噴水みたいに噴き上がっていた。

「運がいいね。あたしに会ったんだから」

ヘルメットの下、江川莉奈の赤い唇がわずかに弧を描く。

重症に見える。けれど、生きている。なら、この程度――彼女にとっては小手調べだ。

バイクの隠し収納から救急キットを引っ張り出し、特製の止血粉を傷口へ振りかける。狂ったように噴き出していた血が、ぴたりと固まった。

続けて、ずれた脚の骨を両手で押さえ、迷いなくひねる。折れた骨は、正確に元の位置へ収まる。

さらに、胸元の急所へ銀針を数本――シュッ、シュッ、と風を切って打ち込む。失われかけた生命徴候を、無理やり引き戻した。

激痛で、梅原晴琉の意識がわずかに浮上する。

霞む視界の中、ヘルメットを被った華奢な影だけが見えた。彼は本能的に手を伸ばし、相手の首元のネックレスを掴んで引きちぎる。

遠くから救急車のサイレンが迫る。

江川莉奈は男が握り潰すように掴んだネックレスを一瞥し、面倒を避けるようにバイクへ跨がると、そのまま夜闇へ溶けた。

……

翌日、津市私立総合病院。

「梅原さん、目を覚まされました!」

ベッド脇には一流の専門医が群がり、興奮で手を震わせる。

「昨夜あなたを救った方は間違いなく――人里離れた場所に身を潜める伝説の天才医師、暁です! あの止血と整復、世界でできるのは彼女だけ! お顔は見ましたか?」

梅原晴琉の瞳は氷のように冷たかった。彼はゆっくり右手を開く。

掌に横たわるのは、ピンクダイヤモンドの惑星を模したネックレス。冷え切った病室の空気の中で、どこか不気味に光を放っている。

「暁、か」

梅原晴琉はそれを助手の田原匠真へ放り投げ、掠れた声で命じた。だが、その奥にはぞっとするような独占欲が滲む。

「このネックレスから洗え。地面を三尺掘り返してでも、この女を見つけ出せ」

……

同じ頃、津市・江川家の別荘。

「江川莉奈、荷物はまとめた? このカードに10万入ってる。さっさと持って出ていけ」

養父の江川藤志は、まるでゴミでも捨てるみたいにカードをテーブルへ投げた。そこに、十八年育てた情など欠片もない。あるのは露骨な嫌悪だけ。

三か月前、一枚の健康診断書が真実を突きつけた――江川莉奈は江川家の実子ではなかったのだ。

江川家は大慌てで本物の令嬢・江川琉衣を連れ戻し、十八年育てた偽物の令嬢は、その瞬間から「目障りな荷物」に成り下がった。

養母の江川百合子は腕を組み、言葉を刃のように突き刺す。

「十八年育てても江川家の人間になれると思った? 当時取り違えがなければ、誰が他人を育てるのよ。琉衣こそ江川家のお嬢様。あんたは十八年分の福を盗んだ偽物、さっさと出ていきなさい!」

江川莉奈は拳を握りしめ、笑えるほど冷えた。

「安心して。あたしも今すぐ出ていきたい」

「口答えか!」

江川藤志がテーブルを叩きつける。

「この三か月、家に置いてやっただけでも恩情だ! 琉衣が言ってたぞ、服を奪っただの化粧品を使っただの。お前は生まれつき卑しい面で、いい物を見たら黙っていられないんだ!」

この三か月、江川琉衣が泣けば江川百合子は江川莉奈を睨みつけた。温かい飯を口にしようとすれば、使用人の大橋が冷めた使用人用の食事をよこす。江川藤志に至ってはカードを止め、私物を全部取り上げて江川琉衣に渡した。

実の両親に一度会うためでなければ、とっくに出ていた。

「実の親って、貧乏な山奥の農民で、兄が五人いるんですって?」

江川百合子は鼻で笑い、軽蔑を隠さない。

「お似合いよ。ここを出たら二度と縋りつかないで。自分の身の程を知りなさい」

「十八年でずいぶん金もかかった」

江川藤志は冷たく勘定する。

「この10万で清算だ。江川家の栄華とは一銭も関係ない。二度と江川家の門を跨ぐな」

そこへ、江川琉衣が階段を下りてきた。江川百合子の腕に甘えるように絡みつき、猫なで声で言う。

「姉ちゃん。山の暮らしは大変でも、家族と一緒なら世界でいちばん幸せだよ。早く帰って本当の両親を探しなよ。ここでパパとママを怒らせないで」

その「心を殺す言葉」を聞き、江川莉奈は冷笑した。瞳に残るのは、骨まで冷えるような寒さだけ。

彼女は指二本でカードを摘むと、ぽいっと放る。カードは綺麗な放物線を描き、ゴミ箱へ吸い込まれた。

「その端金、棺桶代にでも取っときな。あたしはいらない」

「この恩知らず! いい加減にしなさい!」

江川百合子が激昂し、手を振り上げた。

江川莉奈は身をひねって避け、冷え切った目を向ける。

その瞬間――チャイムが鳴り、張り詰めた空気を断ち切った。

ドアが開くと、全員が固まった。

そこに立っていたのは、純白の高級仕立てのスーツを纏う青年。端正な顔立ちに、手首の限定高級時計が陽光を受けて眩しく光る。

「失礼します」

田口夢大は視線を一同の向こうへ通し、優しく江川莉奈に落とした。

「妹の江川莉奈を迎えに来ました」

江川家夫婦は顔を見合わせ、呆然とする。

山奥の貧乏人じゃなかったのか。だとしたら、この男の貴気は何だ。

だが江川百合子が窓越しに玄関前の黒いオフロード車を見て、すぐに鼻で笑った。

泥跳ねだらけ、エンブレムすらない。

「まあ、見た目だけは一丁前。結局、廃車置き場で拾ったみたいな黒い車じゃない」

白眼をむき、嘲る。

「エンブレムもなし。江川莉奈、貧乏なお兄さん、場を保つのに必死ね」

江川莉奈はその車を見て、瞳の奥にわずかな愉悦を浮かべた。

エンブレムがない?

それは世界限定10台、軍需向け特別仕様のオフロード――暴君だ。

宇宙航空規格の防弾装甲で覆われ、軍用チタン合金を一体圧造したボディ。衝突にも穿刺にも強く、極限の路面すら踏破する――陸の移動要塞。

金があっても買えない。必要なのは、金ではなく権力だ。

江川家の成金に見抜けるはずもない。

江川百合子の嘲りにも、田口夢大は眉ひとつ動かさない。むしろトランクからいくつかの贈答箱を提げてきた。

「父と母から、ほんの気持ちです。妹を十八年お世話いただいたお礼に」

「持って帰って!」

江川百合子は鼻を押さえて後ずさる。まるで汚物でも見るように。

「田舎の物なんて菌だらけよ。うちの絨毯を汚さないで。さっさと疫病神を連れて消えて!」

その瞬間、田口夢大の笑みが消えた。上に立つ者の、冷たい威圧が空気を支配する。

「莉奈」

彼は江川莉奈の小さなバッグを受け取り、低い声で訊いた。

「荷物はどこだ。俺が取りに行く」

「これだけ」江川莉奈は淡々と言う。

「……そうか。いい、実にいい」

田口夢大は怒りを押し殺すように笑った。

十八年暮らして持ち出せるのが小さなバッグ一つ――ここで何を受けてきたか、想像は難しくない。

この借りは、田口家が必ず返す。

「行くぞ。兄ちゃんが家に連れて帰る」

轟――

改造オフロードが獣の咆哮を上げ、アクセル一発で走り去る。残ったのは、江川家の面々の顔面に浴びせかけられた排気だけだった。

車内で江川莉奈が、汚物扱いされた贈答箱を開けると、金色の光が目に刺さった。

特注の金塊1キロ×10本、京清市中心部の不動産権利証が10冊、額面10億の現金小切手、そして最高級の宝飾品――。

江川莉奈は眉を上げる。

「兄ちゃん、うちって豊台県の貧困山地じゃなかったの?」

田口夢大は一瞬ぽかんとしてから、ハンドルを握ったまま豪快に笑った。

「豊台県? あそこは田口家の祖宅があるだけだ。うちは京清市のエメラルドレイク・ヴィラだぞ」

エメラルドレイク・ヴィラ――京清市でも最上級の富裕層エリア。資産が千億を超えなければ門すらくぐれない、と噂される場所。

なるほど。田口家は想像以上だ。

江川家の情報網なんて、ゴミ箱行きで十分だった。

一時間後、オフロードは宮殿のような荘園へ滑り込む。

江川莉奈が降りた瞬間、気品ある美しい夫人が泣きながら駆け寄り、きつく抱きしめた。

「見つけた……! 私の娘……っ。やっと、やっと……!」

その光景に、田口家の当主・田口宏明も目を赤くし、一家は月を囲む星のように江川莉奈を迎え入れた。

皆が口々に話しかける中、甘ったるい声が割って入る。

「姉ちゃん、おかえり」

ピンクのワンピースを着た少女が近づいてきた。取り違えられた“偽の令嬢”――田口七海。

田口家は十八年育てた彼女を、実の娘が戻っても手放さなかった。

田口七海は甘く微笑む。だが、その瞳の奥には濃い嫉妬が澱んでいた。

両親がどれほど嬉しそうか、全部見てしまったからだ。本物が戻ったこの家で、自分の居場所は――。

そのとき、執事が黒服の列を率いて入ってきた。

「旦那様、莉奈様のためにご注文いただいた品々が届きました」

先ほど田口夢大から「荷物は小さなバッグ一つ」と聞いた田口宏明は胸を痛め、娘の部屋を物で埋め尽くす勢いで埋め合わせると決めたのだ。

ずらりと並ぶ棚。

エルメスのバーキン・ヒマラヤ、今季のオートクチュール、幻級のジュエリー――一瞬でリビングが最高級ショーケースと化す。

そして江川莉奈は、その中に自分が立ち上げたブランド――暁の名を見つけた。

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