第10章 彼女はあなたが盲目だと言った
田口家へ戻った江川莉奈は、考えれば考えるほど腹が立ってきた。箪笥の奥から鍼灸の練習用人形を引っ張り出し、頭、腕、脚へと――ブスッ、ブスッ――容赦なく十数本、針を突き立てる。
「刺してやる! 梅原晴琉! あたしの逆命丹、横取りしやがって!」
吐き捨てるように言い終えると、彼女は椅子へどさりと崩れ落ちた。肩で息をしながら、視線だけが宙を彷徨う。
祖母は高齢で、長年病にまとわりつかれている。師匠の長澤剛志もまた年を重ね、身体は目に見えて衰えてきた。
逆命丹は――自分に残された、たった一つの望みだ。
成分を解析できれば、百パーセントの再現が無理でもいい。半分でも戻せれば、いざという時に、あの二人の命を繋ぎ止められる。
なのに。
肝心の逆命丹は、梅原晴琉に途中でさらわれた。計画は崩れ、手札も奪われた。思い出すだけで、胃の底が煮えたぎる。
……けれど、ふと冷静になる。
梅原爺さんはいまも病院のベッドの上だ。梅原晴琉が丹を欲しがったのも、祖父を救うため。
結局は自分と同じ――孝のために動いているだけ。
江川莉奈はこめかみを押さえ、ゆっくり息を吐いた。胸の火が、少しだけ鎮まっていく。
「……ちゃんと話せばいい。復刻できたら、一粒分けてやればいいだけ」
決めた瞬間、迷いは消えた。
彼女はスマホを取り、梅原晴琉へ発信する。
コール数回。
繋がったとたん、からかうような声が滑り込んできた。
「江川さん。こんな時間に電話? 俺のこと、恋しくなった?」
江川莉奈の頬がじわっと熱くなる。白目をむきたい衝動を飲み込み、声だけは平静に整えた。
「梅原さん。今日のオークションで逆命丹を落札しましたよね。あの丹のことで、相談があります」
「相談? 何を」
「祖母がずっと体が悪くて、長期入院なんです。師匠も年で、持病が増えて……最近はしょっちゅう具合が悪い」
感情を押しつけない程度に、言葉を丁寧に並べる。
「だから?」
玩ぶような声に、江川莉奈は下唇を噛んだ。だが、引き下がらない。
「逆命丹が必要です。譲ってもらえませんか」
電話の向こうで、低い笑い。
「江川さん。俺の祖父も病院にいるの、忘れた?」
「独り占めするつもりはありません!」
江川莉奈は間髪入れず言う。
「成分を研究して復刻します。成功したら、一粒必ず梅原さんに渡す。梅原爺さんの体だって守れます」
「逆命丹の製法は失伝してるって聞く」
梅原晴琉の声がわざと冷える。
「失敗したらどうする。最後の一粒を無駄にするだけだろ。研究に三年五年かかったら? あるいは完成しなかったら? その間に祖父に何かあったら、誰が責任を取る?」
全部、想定済みだ。
江川莉奈は息を整え、はっきりと言い切った。
「製法は失伝でも、成分さえ掴めれば薬効の少なくとも五割は再現できます。祖母も師匠も守れる。重病の人だって救える。悪い話じゃないはずです」
「悪い話じゃない?」
梅原晴琉が鼻で笑う。
「俺が他人の命まで気にする男に見えるか。正規品を持ってるほうが確実だろ」
江川莉奈は声を落とし、切り札を差し出した。
「一年以内に復刻します。逆命丹を預けてくれるなら、今後、梅原爺さんの体調管理は私が全責任で引き受けます。急変があれば、いつでも呼んでください。必ず駆けつけます。……これで、足りますか」
沈黙。
次いで、抑えきれない愉悦が滲む声。
「……江川さんの誠意、確かに受け取った。そこまで言うなら、仕方ないな。譲ってやるよ」
江川莉奈の肩から力が抜けた。
「ありがとうございます! 必ず、約束は守ります!」
「明日、病院に来い。祖父の病室で渡す」
梅原晴琉の声が、少しだけ柔らかくなる。
「待ってる」
通話が切れた。
江川莉奈はスマホを握ったまま、ふうっと息を吐く。胸の奥が、久しぶりに軽かった。
翌朝、身支度を整えると、彼女はまっすぐ病院へ向かった。
――その頃。
田口七海もまた、病院へ急いでいた。
一見地味に見えて、輪郭の美しさが際立つ黒のワンピース。計算し尽くした「控えめ」の装いに、丁寧に選んだカーネーションの花束を抱えている。
梅原爺さんの入院を聞いてから、見舞いに行こうと何度も試した。だがそのたび、中島執事に門前で止められたのだ。
『大旦那様はまだ危険期です。面会はご遠慮ください』
――今日はもう待てない。
連絡もせず、押し通す。ここで点を稼げるかどうかで、未来が変わる。
梅原晴琉は有名な孝孫。祖父の心さえ掴めれば、晴琉だって手中に収まる。
そう算段して病棟の廊下へ足を踏み入れた瞬間、田口七海は最悪の光景を見た。
江川莉奈が、梅原爺さんの病室の方向へ歩いている。
「……っ!」
理性が弾け飛ぶ。
田口七海は早足で詰め寄り、進路を塞いだ。
「江川莉奈! ここで何してるの? 誰が来いって言った!」
江川莉奈は一瞥すら薄い。
「病院はあなたの家じゃない。来るのも帰るのも私の勝手」
「しらばっくれないで!」
田口七海の目に怨毒が宿る。
「晴琉兄は私の婚約者よ。梅原爺さんが倒れた隙に取り入って、私の婚約者を奪うつもりでしょ? させない!」
江川莉奈は心底面倒くさそうに息を吐き、盛大に白目をむいた。
「誰が奪うって? あんたみたいなのを選ぶ時点で目が腐ってる男なんて要らない。押し付けられても迷惑。どいて。邪魔」
「……っ、嘘つき!」
田口七海は震え、涙を溜める。
「私のパパとママを奪って……今度は晴琉兄まで奪うの? ひどい! 今すぐ! ここから出ていって!」
江川莉奈の瞳が冷える。
「出ていかない。どうする? 力ずくで追い出してみろ」
その言葉が火に油だった。
田口七海は怒りに任せて手を振り上げ、頬を叩こうとする――
だが。
手首を掴まれた。ぎゅっと痛みが走り、次の瞬間、軽く押し返される。
「――っ!」
「ドサッ」
田口七海は床へ転がった。
江川莉奈は見下ろし、淡々と言う。
「その程度? 帰って練習してきな」
「……っ! よくも……!」
床に座り込んだまま睨み上げる田口七海の目は、憎悪で濁っていた。
そのとき。
廊下の奥に、長い脚の影が現れる。
梅原晴琉。
田口七海の表情が一瞬で変わった。涙を拭い、縋るように駆け寄る。
「晴琉兄! いじめられたの……! あの女、懲らしめて……!」
梅原晴琉の視線が、田口七海を一度だけ掠める。
そして、その向こうにいる江川莉奈へ。
もう一度、床に座り込んで芝居がかった顔をする田口七海へ――。
空気が冷えた。
田口七海は梅原晴琉が何も言わないことに焦りながら、それでも泣き声を作って畳みかけた。
「晴琉兄……! この女、あなたのこと『盲目』だって言って……! あなたがくれても要らないって……!」
