第2章 1億のこづかい
田口宏明が豪快に手を振った。
「莉奈、気に入ったものは好きなだけ選べ! パパが全部払う!」
そんな露骨な溺愛、田口七海は一度だって味わったことがない。嫉妬で目が赤くなる。
だが数秒後、七海は感情を飲み込み、いかにも気遣うふりで江川莉奈の腕へ絡んだ。
「お姉ちゃん、田舎から戻ったばかりじゃブランドなんて分からないよね? 大丈夫、私が教えてあげる。このブランドは――」
江川莉奈は氷みたいな視線を一度だけ向け、脇に立つブランドの社長を指した。
「専門の人が立ってるのに、素人が説明する出番ある? それともビューティーアドバイザーになりたいの。練習に付き合ってほしい?」
一言で、息の根を止める。
田口七海は言葉を失った。顔色がさっと青ざめ、爪が肌に食い込む。
空気が険悪になるのを見て、田口宏明が慌てて割って入る。
「七海も悪気があったわけじゃ……莉奈、好きなのを選びなさい。遠慮するな。君たち、うちの娘にちゃんと説明してくれ」
各ブランドの担当者が売り込みを始めるが、江川莉奈は聞く気もない。自分のブランドの商品を七、八点、適当に指さした。
「これで」
田口七海が、待ってましたとばかりにねっとり言う。
「お姉ちゃん、そのブランド、有名メゾンってわけじゃないけど、お値段は可愛くないよ。全部で1,000万以上。パパとママだって稼ぐの大変だし、前まで貧乏だったお姉ちゃんには1,000万の感覚、分からないよね……?」
空気が凍る。視線が一斉に江川莉奈へ集まった。
江川莉奈はくすりと笑い、ポケットから“世界最高権限”のブラックカードを取り出して担当者へ差し出す。
「1,000万くらい。私のカードで」
田口七海の笑みが貼り付いたまま固まった。滑稽な道化そのものだ。
田口宏明がぎょっとしてカードを押し戻す。
「馬鹿を言うな! 父親がいるのに、娘に払わせるわけがないだろう」
相川綾子も柔らかく諭す。
「そうよ莉奈。パパに払わせなさい。あなたのパパ、お金は使い切れないほどあるんだから」
「いりません」
江川莉奈は鞄から小切手帳を取り出し、さらさらと二枚書くと切り離して両親へ差し出した。
「お父さん、お母さん。初対面の挨拶です。好きに使って。親孝行ってことで」
田口七海は見栄だと決めつけ、吹き出した。
「お姉ちゃん、子どものおままごとじゃないんだよ? 適当に数字書けばお金になると思ってる? 偽の小切手を銀行に持ち込んだら刑務所行きだよ」
誰も相手にしない。
田口宏明は小切手に入った特殊な透かしを見て、瞼がぴくりと跳ねた――この娘、想像と違う。
「……100万?!」
彼は江川莉奈を見つめ、声が裏返る。
「莉奈、お前……どこからこんな金を?」
江川莉奈は袖口を整えながら、漫然と答えた。
「自分で稼いだ。好きに使って。足りなきゃまた言って」
田口宏明の目に嬉し涙が滲む。
「よし、よし……青は藍より出でて藍より青しだ! 田口家の未来は安泰だな!」
自分以上の稼ぎ方だと? 田口家が迎え入れたのは、歩くATMだったらしい。
江川莉奈がいきなり200万――。
田口七海は、真っ白な小切手を見つめたまま頬が熱く痛んだ。何度も平手打ちを食らったみたいに。
「莉奈様、素晴らしい! 田口会長、おめでとうございます!」
「莉奈様は田口会長の商才を受け継がれてますね!」
「田口家が世界一の富豪になるのも時間の問題で……」
おべっかが滝のように流れ、田口七海の顔色はみるみる失せていった。
美しくて有能で、口まで立つ――自分に勝ち目などあるのか。
……
一方、病院の個室。
助手の田原匠真は冷や汗だらけだった。
「梅原さん……出ません。あの女の痕跡は全部消されています。まるで……この世から蒸発したみたいに」
梅原晴琉はネックレスを弄びながら、青白い顔に歪んだ笑みを浮かべる。
「蒸発、か。面白い」
