第3章 絶世の神薬

夕食の席。田口宏明は、ほっそりと痩せた江川莉奈の顔を見るたび胸が締めつけられ、次々と菜を取り分けては彼女の茶碗へ運んだ。

「莉奈、早く食え。痩せすぎだ。父さん、見てるだけでつらい」

田口七海はわざとらしくタラバガニの皿を莉奈の前へ押し出し、家の主みたいな口ぶりで言った。

「姉ちゃん、これ食べて。今まで食べたことないでしょ? せっかく家に戻ったんだから遠慮しないで。食べたいもの、何でも食べていいんだよ」

莉奈は返事をしない。唇の端に、冷えた薄笑いだけが浮かぶ。わざわざ“姉妹仲良しごっこ”に付き合う気はなかった。

そのとき、スマホが鳴った。医者専用に設定した着信音――胸がきゅっと縮む。嫌な知らせじゃないかと。

『江川さん! 大奥様が急性心不全です。このままだといつ……! すぐ来てください!』

最後まで聞く前に、莉奈は椅子を押し退けて立ち上がる。

「パパ、ママ。急用。ちょっと出る!」

「へえ? 帰ってきたばっかりなのに口実つけて夜遊び?」

七海は箸を置き、棘のある声で嗤った。

「女の子が夜に出歩くのは危ないって、パパとママも言ってたのに。姉ちゃん、もしかして男に会いに行くの?」

莉奈は振り返り、氷みたいな視線を突き刺す。

「犬みたいに吠えるな。まだ喋るなら、その口裂く」

刃物のような冷たさに射抜かれ、七海の喉がひゅっと詰まった。背中がぞくりと冷え、そのまま唇を噛みしめて黙り込む。

相川綾子が不安げに言う。

「莉奈……七海の言い方はともかく、確かに夜は危ないわ。明日にできないの?」

田口宏明は、娘の強い意思を感じ取ったのか、余計な干渉はしないと決めたように言った。

「七海が悪い。気にするな。出るなら、今すぐ運転手に車を用意させる」

「いらない」

莉奈は歩みを止めない。

「車庫のアウディ、借りてもいい? 急いでる」

「家族に借りるも何もない。好きなのに乗れ。執事に鍵を持たせる」

莉奈は赤信号など構っていられず、病院へ一直線に飛ばした。罰金も減点もどうでもいい。頭の中にあるのは祖母のことだけ――この世で唯一の“弱点”だった。

VIP病室の前。電話を切ってから長澤辰朗は落ち着きなく行ったり来たりしていたが、莉奈を見るなり駆け寄った。

「江川さん、江川婆さんは多臓器不全です。手術は不可能……今のままだと、もって30分……!」

莉奈の指先が翻り、艶のある紅い丸薬が掌に現れた。ほのかな薬香。

「活血丹。飲ませて」

「か、活血丹?!」

長澤辰朗の瞳が震え、声まで裏返る。

「臓腑を修復する伝説の神薬……! 市場に出回らず、いくら積んでも手に入らないって……どこで――」

その瞬間、長澤辰朗にとって莉奈は“落ちぶれた令嬢”ではなくなった。底知れぬ大物――そう悟った目が、畏れと崇拝で濁りなく染まっていく。

「いいから、早く」

莉奈の声は低い。

金なら稼げる。だが活血丹は違う。普通の人間は、持つどころか一目見る資格すらない。

この一粒のために、莉奈は師匠である長澤剛志の人脈を総動員し、数え切れない恩を背負い、自分の財産の半分まで差し出した。

それでも安い。

祖母が助かるなら――命だって投げ出せる。

長澤辰朗は宝物でも捧げるように丹を抱え、病室へ飛び込んだ。

容態が落ち着いたころ、江川藤志、江川百合子、江川琉衣の三人がようやく現れた。しかも愚痴まで添えて。

「こんな夜中に呼び出すとか、いい迷惑だ」

「そうそう、毎回『危ない』って言うけど、結局なんでもないじゃん」

「おばあちゃん、私たちに会いたかったのかな……」

そして莉奈を見つけた途端、三人の顔が一気に曇る。

「江川莉奈? 誰が来いって言った! 田口家に戻ったんじゃないの? 何しに来た!」

百合子が腰に手を当て、怒鳴りつける。

琉衣は無垢な顔を作りながら、声だけ毒を含ませた。

「姉ちゃん、おばあちゃんがもうダメって聞いて、遺産を奪いに来たの? でも姉ちゃんはもう江川家の人じゃないし、諦めた方がいいよ」

藤志も鼻で笑う。

「江川家の金はお前と関係ない。今さら孝行の真似しても無駄だ」

「そう?」

莉奈はゴミを見るように三人を眺め、嘲る。

「遺産? おばあちゃんの棺桶代と人脈で保ってきた程度の家業、奪う価値ある?」

「なっ……!」

百合子が噛みつく。

「おばあちゃんがあんたに援助した金だって江川家の金でしょう! 食わせてやって飲ませてやって――」

「食わせた?」

莉奈は笑った。怒りで。

「小さい頃からあたしをおばあちゃんに押し付けて、養育費なんて一円も出さなかったくせに。学費も生活費も全部おばあちゃんが払った。藤志、会社の元手だっておばあちゃんの棺桶代だよ。今住んでる家も、乗ってる高級車も、何もかもおばあちゃんの金じゃない」

「血を吸って成り上がって、挙句に病危に追い込んで、病院でも金のことしか考えない。最低だ」

痛いところを突かれ、藤志は逆上して手を振り上げた。

「調子に乗るな!」

だが莉奈は瞬きひとつせず、振り下ろされる手首を掴み、軽くひねる。

「ゴキッ」

乾いた音。

「ぎゃああっ! 腕が!」

藤志が悲鳴を上げる。

「うちのパパに何するの! 殺してやる!」

琉衣が爪を立てて飛びかかってきた。

莉奈は眉一つ動かさない。身体をずらし、脚を上げる。

ドンッ――鋭い横蹴り一発で、琉衣は床へ転がった。

「やる気?」

莉奈はさらに冷えた目で言い放つ。

「江川家で大声出されるのは我慢してやった。でも今、あたしは江川家の人間じゃない。もう一度でも触ってみろ」

その眼差しに、百合子の喉が詰まった。だが藤志を支えながら必死に虚勢を張る。

「脅す気? とにかく、おばあちゃんの財産は私たちのものよ! 夢見るな!」

「夢見てるのはそっち」

莉奈は手首を放し、ハンカチで指先を丁寧に拭いた。

「おばあちゃんはもう遺言を書いてる。現金も骨董も不動産も、全部あたし」

「惚けてるとでも思った? おばあちゃんは分かってる。誰が本気で大切にして、誰が狼の心か――全部、帳面につけてるみたいにな」

「残念。最初から最後まで、おばあちゃんの財産を気にする資格がないのは、あなたたちだよ」

百合子の顔が歪み、罵声が飛んだ。

「クソババア! 外に肩入れしやがって、頭おかしいんじゃないの!」

藤志は顔を鉄青にし――そして、何か思いついたように勝ち誇った表情へ変えた。

「江川莉奈。忠告してやる。今すぐ相続を放棄しろ。さもないと――」

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